手記20240608

 わたしほど取り柄の無い人物も珍しいと思う。昔から人並みに何かをできたことは一度も無いし、趣味や友人も持ったことが無い。せめて人格的には真面目だったりやさしかったり面白かったりという美点を備えていれば良かったのだがそうもゆかなかったようで、現実のわたしは真面目さややさしさや面白さといったものを持ち合わせること無く今まで生きてきたし、きっと今後もそうであると予想している。
 そのわたしが日頃何をして過ごしているかというと、もう中年になって久しいのにろくに仕事もせずにほとんど自宅にひきこもって過ごしている。
 そのような有様なのでここに書くにも事欠くはずである。それでもここに何かを書こうとする動機は二つあり、単に書きたいという己の欲に従いそれを満足させることが一つ、もう一つは誰か見知らぬ他者の目に触れるわずかな可能性のある場に身を置くことで、死に瀕しているわたしの社会性をさらに鞭打って動員することができるかもしれないという考えだ。
 わたしが自分の死にかけの社会性を動員して何になるのか知らない。おそらく世で行われている動員というものの一部はそんなもので、動員することや動員されること自体が目的になっていて動員が何か別の目的のための手段ではないという事態はありふれているのだと思う。世の優れた人々でさえそういった無目的の動員の渦中にあることが珍しくないのならば、わたしのような凡俗未満のおっさんが己の社会性を無目的に動員したところで誰も気にしないだろう。

 今日は午前中に自宅の近隣を散歩した。外を歩くことは好きだがそれは気温や湿度がある程度快適な範囲に収まっている時の話で、今日のような気温と湿度になるともう歩いても楽しくともなんともない。それなら歩かなければいいのにそれでも歩いた。歩いているうちに何か楽しいような感じもしてきて、それはおそらく欺瞞だった。現在の地球温暖化は人間の大規模かつ無反省な生産と消費の活動によってもたらされたらしいので、その結果の一つであるひどい蒸し暑さの中の散歩に楽しみを見出そうだなどと言うのは一種の狂気の沙汰と言って差支え無い。わたしは刑務所に入った経験を持たないが、刑務所が社会の縮図なら社会は大きな刑務所だ。レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』の中でだっただろうか、刑務所はただただ不快なだけの場所だ、と述べられていたのは。人間社会で生活しているととにかく不快である。そしてわたしは人間社会のほかに存在する場所を知らないのでずっとその不快な場に留まっている。たぶんこれが死ぬまで続く。
 散歩の最後に近所のケーキ屋さんでケーキを何ピースかいただいて帰って妻と食べた。基本的にわたしの頭の中には食べることと寝ることしか無い。わたしは醜く愚かで非倫理的で何の能力も資源も持たない、誰からも愛されない人間である。中年になった今でもその自分しか知らないのだから、これからもこのまま行くしかなさそうだ。
 やれやれ。でもとにかく行こう。