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駄文#15 習慣

こんにちは。抽斗の釘です。

前回から2ヶ月が空きました。
少々生活に変化がありまして、家のことなどしておりました。
また、その間公募用の制作も済みましたので、再び掌編投稿を再開しようかと思います。

普段代わり映えのない生活をしていても、変化というのは大小必ずどこかで訪れるものです。
つまんねえ毎日だなと思っていても、ふいにそれが途絶えたりするものです。

それもこれも生きていくうえでの必要ですから、私たちは唐突に、柔軟に変化することを強いられます。
いくら変化を避けて生きていても、不変のものはなく、もともと死に向かい続けているわけですから、やはり私たちは常に変化せざるを得ないと心得ていなければならないように思います。

またのっぴきならない生活の変化が訪れると、とうぜん否応なしにしなければならない、すべきことが生まれてしまいます。それまでの習慣に加えて、もしくはやめて、新しい習慣に馴染まなければいけません。
それはひどく面倒で疲れることで、度々苛立たしい思いも起こるものです。なんで私がこんなことをしなければいけないのだろうか、などと。
私たちはただ漫然と生きているだけでは許されないのです。それはなんとも憂鬱なことでしょうか。……しかしのっぴきならないことというのは必ず訪れるものです。

そののっぴきならないことは、私たちの心をひどく揺さぶり、苛立たせます。それまでの習慣に生きていた自分が失われるような、自分の尊厳が失われるようなことも感じるでしょう。

そこで重要なのが納得感なのではないでしょうか。
のっぴきならないことに対して始まった新しい習慣。それが自分にとってどう必要なのか、本当に必要なのかをしっかりと考え、ああ、面倒だけどやっぱり大事なことだ。と、いう納得を得る。
のっぴきならないのでとうぜん大事なことなのですが、それを自分の頭で考え納得するかどうかは大きな違いだと思います。

納得いくことができれば、後はただ心静かに丁寧にそれをおこなう。

納得してしまうと、新しい習慣は慈しみに溢れるものとなりえます。

また現在惰性にやってる習慣でも、それを今一度見つめ、それが生きる上で必要なのだと心静かに納得できてしまうと、つまらない習慣も美しいものに感じられるのではと思います。

同じことでも苛立ちながらやることと、慈しみながらやることでは、自分に及ぼす影響も真逆になるように思えます。

要は考え方、感じ方次第でしょうか。
変化を愛せるように生きていきたいものです。

といったところで、新しい習慣や変化を愛せるように願いながら、掌編を作るという一度止めてしまった習慣を、またどうにか新しく得ようと、再び思慮する次第です。

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