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続ける、かかる

「続ける」ことは一つネックではあるようだ。「続ける」ことを意識しない程に当たり前化してしまえばいいのだが、そうなるまでの間には大抵、意識的に「続ける」ことが必要になる。そこにはどんなに楽しいことでもそこはかとない義務感が生まれ、それがなんとなく嫌になる。嫌の澱が溜まり、やがてその澱の中に「続ける」ことが沈んでいく。たまにその澱から引き上げてみたりもするけれど、だいたいまたその澱の中に突っ込み直すことになる。
世の中にはそれに対処する本がたくさん出ていて、それを読めば一つ解決策を見出すこともできるのかもしれない。でもやらない。なぜならおそらく、その本に載っていることを実践することを「続ける」ことが求められるからだ。結局それも「続ける」ことが必要で、同じように澱の中へと沈んでいく。

ついにコロナにかかってしまった。これまでにきっと無症状のままかかっていたのではないかという楽観的観測は儚くも消えた。そして、軽度で済むのではないかという楽観も。きっちりと熱は上がり、その後に鼻と喉がやられ、微妙に引きずり続けている。自主的な隔離を経て、ようやく少しずつ外を出歩くようになったものの、どうにも世の中とうっすらした壁を感じる。一度は外す時間が増えたマスクもまたほぼ常時着けるようになってしまった。潜伏期間も過ぎたのだから、元に戻せばいいのかもしれないが、まだ少し不安が残る。結局経験をしないことにはその恐ろしさも、かかってからの感覚もわからない。

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