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燃える炎を見る

定期的に書き続けないと何かが鈍っていく。そんなことは何度も何度も繰り返していて、十分に分かっているはずなのに続けることは難しい。それでもせめて月に一回ここに書きつけること。それは自分に書き物をすることを課した以上、一つのいい枷なのかもしれない。

言葉を繰り返し交わし、言葉に救われたはずが、またも伝わらないことで苦しむことになった1ヶ月だった。自分がどっちを向けばいいか分からないまま、詳細を知られたくない気持ちと救いを求める気持ちを歪に重ねたまま放った言葉が、巡り巡って自分をぐちゃぐちゃにした。そのダメージの大きさで、その前にやろうとしていた諸々が吹っ飛んでしまった。

だが、「巡り巡って」がとても重要だ。それはかつて自分が放った言葉に起因しようとも、結局は誰かのフィルターを通して戻ってきたにすぎない。それはもはや自分の負える責任の範疇を超えている。人が人の放つ言葉をどう捉えるかは、完璧にはコントロールできない。少し向きを変えることはできるがそれも稀で、大抵はそうなっていった様を眺めているしかないのだ。

この1ヶ月、繰り返し繰り返し、火を焚べにきた。いかにすると火が綺麗に移り、炎となり、燃え上がるかを試行錯誤した。結果、比較的スムーズに火を起こせるようにはなった。だが、結局のところそうして燃え上がった炎の形は不定形で、コントロールはできない。それをただ眺めているしかない。

言葉と炎、二つの姿が重なって見えた。

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