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ビーカー

ガラスが砕け散る音がする。たった1メートル。手のひらからこぼれ落ちたビーカーは1メートル分の重力による落下エネルギーを得て、底の角から床に落ちた。そのエネルギーが角の一点で一気に反射してビーカー全体に伝わり、ガラスは砕けていく。僕はその様子を真上からじっと眺めていた。砕けた破片がズボンの裾に当たるのも気にせず。どうして自分がここにいるかもわからない。理科室の大きな窓から見える満月の月明かりがあまりに明る過ぎて、窓の外は昼間のようにくっきりと明るい。だが、対照的に理科室の中は薄ぼんやりとしか見えず、僕はその中心に佇んでいた。傍のテーブルにある備え付けの水道からは水が流れ続けていて、排水溝が詰まっているのか、あと少しでシンクから水が溢れそうだ。受け止めようにも僕の手にはもうビーカーはない。器は壊れてしまった。
ついに水はシンクの限界を超え、理科室の床に溢れ始めた。永久とも思える時間の中で、溢れた水はなぜか理科室の外に出て行くことなく、部屋の中で徐々に水位が上がっていく。靴の中に水が染み込み、膝丈まで水に浸かってもなお、僕は動くことができない。いよいよ部屋に水が満ちて僕の体が全て水に包まれたとき、初めて僕は床から足を離した。いや、離したというより離れたのほうが近い。理科室に満タンになった水の中でぷかぷかと浮かんでいた。沈むでもなく、上がるでもなく。僕の口から漏れ出す空気が、コポコポと音を立てて、上へと上がっていく。砕けたビーカーの破片も一緒に浮かんでいて、時折空気が破片に触れる。窓の外の満月の光が、破片や空気に合わせてキラキラと揺れる。僕はどういうわけか、水の中で息が続くかの如くしばらく浮かんでいたが、どうも水の中で呼吸する方法を得たわけではなかったらしい。薄れゆく意識の中で気づくと理科室の床は無くなり、深い深い闇が足元に広がっていて、僕はゆっくりと底へ沈んでいく。理科室が小さな額の中に収まるほど遠くなり、さらにそれが米粒ほどの小ささになったところで、僕はすっと席を立ち上がり言った。
「理科室のビーカーを割ったのは僕です」


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