孤高の山猫スナイパー尾形百之助の精神性について心理学的見地から紐解いてみた【考察】

なんの前触れもなく唐突にはまり込んだゴールデンカムイ。
そして、唐突にハマった尾形百之助。
1月22日は、そんな彼のお誕生日ということで、映画公開記念も兼ねて、こちらにも掲載。

孤高の山猫スナイパーな彼について、心理学領域から眺め、徒然なるままに考察してみました。

ちなみに。
ひとの善性と人格は、環境(教育・人間関係)で作られるところがあって、罪悪感をふくめて倫理観も育てないと育たない。

それを踏まえた上で、最終回までのネタバレを含みつつ、尾形を見てみたいなと思います。


■母子関係と基本的信頼

原作では幼少期の生育歴から家族構成まであり、ここを見る限り、ネグレクトに近い母親との関係性が推測されます。
母の愛が真に尾形自身へ向けられることもなかったのでは、とも推測。
(捨てられる前から、彼女の視線は尾形を通して常に花沢幸次郎へ向けられていた可能性)

ここでエリクソンの漸成的発達理論でいうところの、『基本的信頼感』の獲得がなされなかった。
他者に対する信頼も、自己に対する信頼も確立されていない。
あるのは基本的不信感。
これが、尾形の根底に存在し続け、以降の行動や心理に大きく影響を与えたのではないでしょうか。


■罪悪感と自己防衛

尾形の精神性を表す時、最も軸となるのは、「自身は罪悪感がない」と表現すること。

ただ、この場合の罪悪感のなさと言うのは、境界性人格障害とかサイコパス的なものではなく、基本的信頼感の未獲得から来る『他者への共感性の乏しさ』に起因していそうなのです。
そして、その共感性の乏しさには、自己防衛も含まれる印象。

求めて得られない失望と無力感は人の精神を削るのですよ。
尾形の場合、幼少時の母子関係の破綻により、自我の形成にかなりの負担を強いられたのは自明。

何も感じない、と思わないと自我を保てない。
自分の正しさを証明しないと立ち行かない。
間違いを認めることは、自分を全否定することになるから、そうしたらもう生きていけない。
当然、自責では潰れてしまうから、他責にして自分をかろうじて守っている。

この一点においても、認知に歪みはあるけど、純然たるサイコパスとは足り得ないところ、とも判断してます。


■祖父母の存在と社会性

ちなみに、銃の扱いは祖父、食事は祖母がになってくれて、「バアチャン子」と本人が言うように、完全に1人というわけではなかったおかげで、不完全ながらも他者の中で生きる術(コミュニケーション)の引き出しはできたと想像してます。

場面場面で相応しい態度をとることや取り繕うこと、ある程度『ひとの中』で生きていくことができるのは祖父母のおかげかな、と。

各陣営ごとに違うキャラやいろんな顔を見せられるのも、そのキャラクター性に擬態しているとしても、演じられるだけの『人間』としての引き出しと素養があるとも言えますし。

ただし、人の心の機微に鈍さがあり、相手の感情に対して共感できないから、時に言動がちょっとズレる。
アシリパさんへかける言葉に違和感があるとしたら、「たぶんこういうシーンではこういうのだろう」というデータベースから引っ張り出しただけで、本当の意味で相手を理解して寄り添っているわけじゃないから、といった感じ。

優しいふりはできる。
その場に相応しい振る舞いも心得ている。
でも相手に心を傾けるには、あまりにも尾形の精神は脆弱にすぎるので、踏み込むことができないから、本質的な他者理解にもつながらない。
だって、相手との境界線を越えることは自分の弱いところを見せることで、そこに触れられると壊れてしまうから。


■自己肯定感と自己効力感

自分ならできる、が自己効力感。
どんな自分でもオールオッケー、が自己肯定感。

尾形の場合、自己効力感はあっても自己肯定感が低すぎるために、有能である自分のアピールとともに、自己の正当性を他者に確認せずにはいられないので、と。
己の有能性と正当性を常に証明し続けないといけない。
二○三高地で宇佐美にアレコレ聞いちゃってたのがここに現れてる気がしてます。

そして、自尊心が自損と自壊になるタイプ。

人に寄り添うには、それなりに精神の安定性が必要だし、余裕と柔軟性も必要。
自分の痛みを自覚し、欠点を見つめ、なお乗り越えるためにはある意味他者が必要だけど、そのためには絶対的な心理的安全性の体験が必要。
自分の過ちを認めて再起するにしても、尾形は、『失敗した自分であっても愛される』『どんな自分でも愛される』という体験ができないまま、ここまできてしまったから、上手に転ぶこともできなかったのかも。

自分への価値を自分自身で見出せないから、他者に肯定を求め、さらに、承認欲求を抉らせて『自分を見ない人々』に対して怒りと失望を覚えるのではないかとも見れます。


■鶴見中尉と父性への期待

鶴見中尉に関しては、そこに、父性を求めていた可能性もありそうです。

かつて自身が得られなかったものの再獲得のチャレンジでもあり、幼少期のやり直しの機会でもあった。
でも、鶴見中尉にとって自分は唯一の存在じゃない、他にも目がいってる、ということで、そこに実父を重ねてしまい、見限ることで自分を保つことに舵を切ったのかな、とも。

この辺、自己肯定感の強い宇佐美とのアプローチの違いが垣間見えます。

裏切ったのはあなたのせい、っていうのも、「えられると期待していたものを与えられなかった失望」からの派生。
この感情(葛藤)をうまく処理できてないが故の他責とも取れる。

土方さんに対しては、父性を求めそうでいて過剰な期待には至らないから、こちらは祖父への感情に近い気もしてます。
ちょっとだけ、土方さんへは『甘え』も見れたりしますし。

勇作への二律背反と亡霊
異母弟である勇作さんへの感情は、たぶん、正反対の二つがせめぎ合っていたのかなと思います。

羨望と嫉妬、自身の存在を脅かす脅威として映る一方で、自身が求め続けた無償の愛を注いでくれた相手でもあるという、存在の難しさ。

そもそも愛情を受け取るには器が必要で、尾形のソレはほぼ壊れてしまってたから、『勇作からの愛』を歪な受け取り方しかできずにいた。

そのうえ、勇作は、父親に愛された子供、期待された子供、特別な子供。
自分が『欲しくてたまらないもの』を、生まれた時から持つことが許されていた子供であるところの『勇作』から、自分へと、真っ直ぐに注がれている愛に気づくわけにはいかない。

祝福されたものからの施しを、自身に許すわけにはいかない、というのもあったかもしれない。
それを認めたら、愛してもらえなかった自分があまりにも惨めに過ぎる、という。

ちなみに、人類最初の殺人は、カインによる弟アベル殺しなわけですよ。
神が弟の供物を受け取り、自分のものは受け取らなかったことが発端であり、ユングが提唱した精神分析にはそのものずばり、「カインコンプレックス」というのがあります。
兄弟間で親の愛をめぐって心理的に苦しんだ原体験は他者を巻き込み、時に同世代も憎悪の対象となる、らしいのですが。

尾形の場合には、憎悪というにはあまりに精神性に無垢で脆弱な部分があって(幼さともいう)、一概に憎悪だけとも言いがたく。

だからどこかで、自分はどこまでこの弟に許されるのかというためし行為(確認行為)も繰り返していた気もするのです。

そして、途中から現れるようになった『亡霊』は、尾形から切り離された心であり、そこには、尾形の中にある、『勇作への肯定的好意』が含まれているのでは、と。

裏切ることなく最も自分のそばにいて、自分だけを見てくれて、殺されてもなお変わらぬ愛を注いでくれるという期待と信頼にも似た想い、『受け入れたかった弟からの愛の形』が亡霊なのでは、と思うのです。

だから時に尾形の体を気遣ってくれるし、無意識下で「尾形が本当はしたくないこと(アシリパさん殺害)」はさせないように妨害する。
尾形の精神が死へと向かわないように、自壊を起こさせないための『ブレーキの役割』があったのではないかと思います。

でも、どこかで、「勇作さんの魂の一部がとどまっているというのもいいな」と思うのでした。浪漫。

彼の終わりはどこにあるんだろうと考える時、尾形の最期が弟との地獄への道行となったこと、弟の愛をようやく受け入れられたことは幸せなのかもと思った次第です。

以上、ゴールデンカムイにおける尾形百之助の精神性についてを、心理学に絡めつつ、好き勝手に解釈してみました。

もっと読み込んだらもっと違う知見を得られるやも知れず、他の方の考察から新たな解釈が生まれる可能性も高く。
そのときはまた徒然なるままに綴ろうと思います。

異論は認める!

追伸:分析したシーンの出典話数を差し込むか悩み、一旦見送ってますが、必要とあらば追加します。

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