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5歳の女の子にもう大丈夫だよと伝えたい。2020、アダルトチルドレンの私へ。

私がACの自覚を持ったのは16歳の頃。まず、ACとはなんぞや、と思うだろう。スーパー簡潔に言うと『アルコール依存症に育てられた人』

一応ちゃんとした説明も…

アダルトチルドレンとは、 親がアルコール依存症の家庭で育って成人した人。Adult Children of Alcoholicsの略語で、こちらがもともとの意味である。アメリカでアルコール依存症治療との関わりの中で生まれた言葉である。Wikipedia

タイプでいうと私は『マスコット(ピエロ)』で、家族に笑ってほしくて話の中心にいたり、おちゃらけたりしていた。

うちの場合は母がアルコール依存症だった。母が依存症になった原因は、もともとの家庭環境、父の自営業がうまくいかず、金銭的にも厳しく夫婦間でのコミュニケーションもうまくいっていなかったからだ。

私が4歳頃からはじまり、異常に酔っている母を見るのは生活の中でよくある光景だった。

酔い潰れて寝そべる母、その姿を見て怒鳴る父、大きな声に驚き泣く妹、アルバイトから帰り仲裁に入る姉。私は妹の隣に座り、頭を撫でる事しかできなかった。

普段の母は優しい人。アルコール依存症と聞くと、凶暴になる的なイメージを持つ人も多いかもしれないが、母はひたすら自らの事を深い深い奥底に閉じ込めながら静かに精神が悪い方向に落ちていく。とても繊細で、あまり自分の意見を言わず、人との距離感も一定に保つミステリアスな人。幼稚園の先生や他の保護者の方からは「ひかるちゃんのお母さんは綺麗ね、ピアノの先生みたいな雰囲気ね。」とよく褒められた。私は嬉しかった、そしてその言葉にホッとした。

幼稚園のお誕生日会はその月に誕生日を迎える子供たちの保護者も一緒に参加をするスタイルで、今思えば余計な事を…と思うが当時は母が来てくれるのが嬉しくて楽しみで仕方なかった。歌をうたい、ケーキを食べて、壇上にあがりお誕生日メダルをもらう。けれどまだ母は来ない。私以外の数名はお母さんやお父さんと手を繋いでいる。私の隣だけ空いている空間。記念撮影の時間になり、みんな抱っこされている。私が立っていると先生が来て抱っこをしてくれた。すごく恥ずかしくて見せ物のような気分だった。結局母は来なかった。幼稚園から帰ると案の定、玄関で酔い潰れていた。

私はごはんの買い物へ行く母によくついて行っていた。そして、行き・買い物中・帰り道に質問をしていた。「あの木の実はなあに?」「あの建物は誰のおうち?」「今日のごはんはなあに?」「あれはタコ?イカ?」「お父さん何時に帰ってくるかなあ?」

すべての質問は気になって質問していたわけじゃない。本質はそこではない。行き帰りは母が通常であるかどうか(声のトーンでわかる)買い物中はお酒コーナーに行かないようにするため。6歳の私なりの作戦だった。「お酒を買わないで」とは通常モードの母には言えなかった。私が沢山質問する事によって、予防になると本気で思っていた。

母がスーパーのお手洗いから出なくなる事もあった。「ちょっと待っててね。」と告げられてから全然戻ってこない。時計の針はどんどん進んでいく。お手洗いに行き、数分様子を見て、一向に開く気配の無い扉がある。きっといるはずだ、と私は小さな声で母を呼ぶ。すると「ちょっと待ってね〜」と返ってきてまたここから数時間待つ事も少なくなかった。

ある時は気を引きたいが為に自転車の後ろに乗った時(お座りカゴみたいなのが荷台についていた)左足を車輪に絡ませてみた。捻挫をした。母はびっくりしていたが、私はそのたじろぐ様子を見て嬉しく思った。

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母は飲むと一番広い寝室で潰れてる事が多かった。私は吐瀉物や排泄物の処理をし「大丈夫?」と一言かけ、かわいいガラスの器に移したみかんの缶詰めを机に置き、一階へ戻り算数ドリルや粘土遊びをする。

平常でいたかった。どんなにショッキングな姿にも動じず、これは別に驚く事ではないと自分に言い聞かせていた。そうじゃないと色々なものが崩れていく気がした。ただひとりでいる事は悪いことばかりでは無かった。人よりも少しばかり手先が器用なので、折り紙で凝ったものを作ったり、泥でつくったケーキは木の実や葉っぱをのせて彩をよくしたり。満たされないかわりに自然にあるものや幼稚園にあるものでひたすら自分が今欲しいものの変わりをせっせと作っていた。

夜になるとよく泣いていた。母が正常で隣で寝かしつけてくれている時は安心からか、困らせたいからなのかとにかく泣いていた。暗闇も怖かったので、明かりを付けたままの状態。私はその時に「ごめんねって言って!」と泣き叫んでいた。けれど母からごめんねごめんね、と言われても黒くて深い穴は塞がらず満たされない。原因である本人、母という存在でも埋められなくなっていた。

小学生になり、外の世界ではクラスの中心的な存在で常に目立っていた。けれど絶対に家の世界は知られたくなかったので、友人に遊びに行きたいと言われても何かしら理由をつけて断っていた。外の世界の私はキラキラとしていた。楽しかったわけではない。陰と陽のバランスをとりたかったし、先生というか大人に「頑張っているね」と褒められ、認められたかった。

中学校にあがり、私は母の夢だったモデルを目指す事になった。事務所や雑誌や広告のオーディションにもトントン拍子で受かり、順調に進んでいた。受験期になり、オーディション気分で志望校の面接をして受かり、少し早めに受験を終えた。大手カメラメーカーのオーディションの時に『泣きながら笑ってみて』という指示があった。意味がわからなかった。まわりの子は「ありがとう、元気でね!」とか言って泣いて笑っている。それぞれ自分たちなりの設定をつくり難題を軽々クリアしていく。その時に、なぜかもう笑えない・笑いたくない、無理だと思った。下手くそな演技をして会場を出た。

高校へ入学し、初日から友人も数人できて『よし、安全場所確保』と思った。しかし数ヶ月して学校を辞めた。高校の友人はびっくりしていたし、仕事が忙しくなったの?ととても心配してくれた。

私は人生を休みたくなった。

思考を停止させたかった。人からどう見られているか、私は正常に見られているか…気を張る状態に疲れてしまった。それから両親に反対されながらも引きこもり、絵を描き、出来た絵をご機嫌を取るように母に見せて、褒められたら明け方ちかくに寝るという生活を送っていた。

母とケンカをする事もあった。家からいなくなったので探そうとしていたら警察から電話がきて姉と引き取りに行く。情けなかった。いっそどこかに行っていなくなってくれとも思った。お金が無いといって飲んだ時、当時コツコツと貯金していた30万円を母にむかって投げつけた事もあった。父とも別居し、家庭は破綻していた。唯一の救いは姉と妹の存在。姉は悟りでもひらいてるのか、という位言葉で問題を解決に導いてくれる。そしてとにかく働いて私と妹を守ってくれていた。

知らず知らずのうちに16歳で双極性障害(躁うつ病)になっていた。症状が激しくなったのは社会人5年目の頃。動けず、眠れず、働けなくなってしまった。無力。無価値。無い無い尽くしだった。今すぐ休職した方が良いと先生から言われ、診断書をもらい、泣きながら上司へ電話をした。

働けなくなって、母とコミュニケーションを取る機会が多くなった。そしてあの頃を埋めるかのように食事や治療法、私が好きそうな散歩ルートを考えたりしてくれた。この頃になると母の依存症もほぼ無くなり、精神は安定していた。おかしな状況になるもんだな、と思った。辛かったけど、この時は少し良い思い出として残っている。なんだか悔しい気もするが、大人になってまで母の愛情を少なからず求めていたのだと実感した瞬間だった。

まだ双極性障害は治ってもいないし、AC特有のトラウマも残っている。ひとりで寝れなかったり、ふとした時に恐怖心で押しつぶされそうになったり、虚無感で自分が何者かわからなくなり消えたくなる時もある。

けれども少しずつ、私自身も家族関係も良くなってきている。長かった。非常に長かった。

ありがたい事に私のまわりには素敵な人たちが多い。優しくて、弱さも知っている方たちに囲まれている。なにより大事な人もいる。

無い無いだらけの自分を埋める為に、あらゆる装備を身に付けてきたけれどそんな事はしなくても愛される時は愛されると知った。

そして母の事は好きだけど、憎い部分もある。それで良いと思う。無理して好きの理由を作る必要性は無い。

長くなってしまったが、今年から私は深層部からナチュラルでいたい、ある意味無意識で好きだと感じる事に挑戦していきたいと思っている。軽やかに生きていく。

2020.1.6 ベッドの中にて

【今の気持ちを忘れたく無いので追記する。】

私は子供は育てられないと思っていた。1回目の結婚でもどこか自分の分身を世に送り出すには大きな責任が伴うし、恐怖心や自信も無さが勝り、結果的に子供がほしいという気持ちにはならなかった。そしてとても申し訳なかった。自信のなさという物は、どこか悪い事は次の世代にも連鎖をしていくかもしれないという思いがあった。祖母も大変な家庭環境、母も金銭的にも育った環境的にも苦労をした人。そして。決して楽しいとは言えない10代だった自分。もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら。そんな思いがずっと消えなくて、人にも言えなかった。

けれど今、私はパートナーがいる。5歳のころから私ができなかった「甘える」という行為ができる人と一緒に暮らして、何気ない日々を過ごしている。恥ずかしいけれど、駄々をこねることも、全力で喜ぶこともできる。小さい子供に接するように私に接してくれる。あの頃を埋めるとかそういうことではなく、また別の次元の満たされる気持ち。

いままで、こんな枯渇した自分できちんと生きていけるか不安だったけど、まわりの人に助けられて支えられながら、私も愛をもっていきたい。って、そんな綺麗にまとまらないけれど、そう思っている。2021.0106

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