コメツブウニを知った日。日記。
今日は朝から死にたみが強かった。
わたしの場合、睡眠不足はてきめんにメンタルに来る。
雨の日だってのも、ある。
思春期の少年少女が死にたいとか言ってるのを聞くと心が痛むが
このトシでそういうことを言ってるのは、我ながらかなり恥ずかしい。
トシは関係ないやろ、と思わないでもないが
やっぱり若者とは同じではない。
未来はわからない。
ほんとうは、未来の量なんて年齢では予測できないし
量がわかったところで、何が出来るかなんて、それこそわからない。
残された時間があるほうがまだ、悪足掻きできるやん、と思う一方で
実際に若かった頃は
「えっこの上にあとどれだけ足掻けば許されるわけ?」と絶望的な気持ちにもなった。
時間があるならあるで、あるばっかりに、
それを努力に費やさねば許してもらえない。
ヒトとして必要な、基本的なことが、昔からどうにもうまく出来ない。
それは例えば、
机の上を片付けるとか
学校でもらったお知らせプリントを忘れず親に渡すとか
洗い立てのハンカチを持っていくこととか
時間割を揃えて持っていくことなど。
あるある、ってみんな思うでしょ?
でもそれ、どのくらい出来てなかった?
わたしは、毎日だったよ。
時間割もハンカチも、寝る前に準備しておけばいいのよ、と思って
夜になると忘れる。
プリントは鞄のいちばん目立つところに入れておくのよ、と思って
鞄を開けることさえ忘れる。
机の上を片付けよう、と思ってまずは机の上のものを手に取る。
それが例えば鉛筆だとする。
うん鉛筆だ、と思う。それをどうすれば良いのかがわからない。
片付けるとは、モノの住所を決めておいてそこに戻すことなのよ。
でもその住所って、どうやって決めるの?
いいやもう、何でもいいから住所決めちゃえ。よしここだ。
そうして決めていったはずなのに、机の上のモノは移動するだけで
全く片付いていかない。
謎だ!
毎日、を何年も何年も。
出来ないことを、とにかく頑張って 少しでも出来るように
なんとか体裁を整えてきた子供時代だった。
頑張っても人並みには出来ず、叱られてばっかりだった。
日々、ものすごく努力してるつもりで、でも叱られる。
「頑張った頑張ったって言ってばっかで」
「頑張ったからそこを評価してくれとでも?」
「出来てないじゃないの。それは努力してないってことだよ」
やりたい事とか、考えてる暇はない。
やらなきゃならない事をなんとかやるだけでもう、いっぱいいっぱいで
しかも
やらなきゃならない事をなんとかやってるつもりで、でも出来てない日々。
タスクの量はそのまま、出来なくて叱られる量だ。
わたしの人生は暗黒だった。
未来があるというなら、やらなきゃならない事が出来ないだけの未来だ。
しかも子供だから、残りの時間が(おそらく)沢山ある。
絶望だ!
そんな子供時代から、何が変わって わたしの絶望は消えたんだろう。
こう、「光あれ!」みたいな、爆発的な何かが起こったわけではない。
ただ、思い起こしてみれば
暗黒の子供時代にも楽しいことはちゃんとあって、
それは例えば
車の窓に流れる雨粒を追うことだったり
沢蟹がごはんつぶを口に運ぶのを眺めていることだったり
砂場の砂から欠けていない貝を探すことだったり(コメツブウニを見つけると、とても嬉しい!)
そういう事がちょっとずつちょっとずつ貯蓄されて、
ふと顔を上げれば周囲がほの明るくなっていた。
ように思う。
ながく生きていると、そういう蓄積が出来るの、良いな。
未来がたくさんあるのと、おんなじくらいには、良い。
掌にうける早春の陽ざしほどの生甲斐でもひとは生きられる、らしい。
( 伊藤桂一『微風』より抜粋 )
そうやって、
砂場の小さきモノのことを数十年ぶりに思い出したりして
あれ何だったんだろ、なんて検索して、
はじめて、コメツブウニという名前を知ったりして
そうこうしているうちに わたしの死にたさは薄れていくのだった。
何か、努力とかさ。
笑っておくれ。
投げ出しては拾ってを繰り返すささいな日々を、努力とか言ったりして
恥知らずなわたしを、どうか笑って。
いっぱいいっぱいで
浮いたと思えばまたすぐ沈んで、自分にガッカリしたりして
でもぜんぜん懲りてなくて、
そういう、恥ずかしくてくだらなくて愛しいわたし。
何が書きたかったかというと、じつはコメツブウニ、って書きたかった。
しつれいしました。
明日は寝坊します。おやすみなさい。
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