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アンソニーホプキンスの言葉/かがみの孤城を年明けに観てきた。

「お酒が飲めない人は人生損をしている」

(H氏 60代 男性 談)

以前こんなことを言う知り合いが居て、これって結構な失言なんじゃないかと思うのだが、この前は、

「お酒を飲む人間には料理の味はわからない」

(I氏 50代 男性 談)
と、これは"自称"食通の知り合いが言っていて、お酒を飲まない自分の舌は特別だと言いたいと、つまり。
どうしてこうも偏った意見の人ばかり周りに居るのか。
つまらぬ知り合いそれぞれにお返しする言葉として、

"酒を飲めるか飲めないかで幸せが決まるなんて寂しい人生ですね"


"本質的に満たされていない人が食に走るらしいですよ"


などがあるのかなと思うけれど、実際に言ったら報復されるかもしれないので思うだけにしておく。
自称食通のI氏に関して言うと他にも妙なこだわりを色々お持ちで、かつ詮索好きなのでなんとも話しづらい。第一この男、人の噂話ばかりだ。同じ場に居る時は率直に不快である。

話変わって、
酒飲みはどういう訳か人に飲ませたがるフシがあるという話。私にお酒を控えている理由を聞くこともなく、

「車は置いてきて下さい」

(W氏 50代 男性)

このように、飲みの席への交通手段をLINEで指定してくる3人目の刺客なんていうのも居る。

強要、ハラスメントですね。

「僕とそんなに飲みたいの?」

実に不思議である。

次からは相手の選択を尊重出来るようになって下さい。お酒を飲む人生も飲まない人生もあります。互いを尊重出来るようになりましょう。

さて、そんな私は昨年の夏に札幌へ行く前辺りから大好きなお酒を控えていて、
その少し前からは一日一食にしている。
ちょうどこれを書いている今日で禁酒は5ヶ月が経過、一日一食の方は半年を超えている。
上記の、上から目線のハイエナ共からしたら何かしら要らぬ口出しをしたくなるような、格好の餌食となりそうな話題だが、心をフラットに今年はスルースキルも養い、そして適度な距離を取りたい。

気楽に好きなものを量も気にせずに食べる一食生活。
年明けはマクドナルドから始まった


元々以前から
一食期というのは不定期で訪れていて、
そもそも普段が二食での生活なのでどちらでもそうそう変わらないのと、
お腹が空けば今でも二食食べる日もある。
今日はちなみに寿司とラーメンを食べた。

鰤のてりやき
ビクトリアカツ
メカジキのサンドイッチ
地味に20年以上ぶりに行った肉の万世
高円寺ともちんラーメン
ピザ

僕はコンスタントに2食食べる生活をしている限り緩やかではあるが順調に増量する。あと、頻度を細かく分けて食べたほうが太らないというのは個人的に全くそう思っていなくて、だから数日とか或いはもっと長いスパンで、食事の総量を帳尻合わせしながら生きている感じである。物心ついた頃から割とそう。

一方で最近はケーキを食べる事が多くなった。
これは都合良く食事に換算せずに食べている。
きっとお酒の代替なのだろう。
帳尻が合っているかどうかでいうと、問題ない事にしている、という感じ。アバウトにやっている。

クリスマスはショートケーキ
年末はプリン
これはチーズケーキです かわいい
子供時代はチョコケーキばかりだったけど今はショートケーキ派

そして、そんな矢先である。
「アンソニーホプキンス断酒47年祝う動画」
この記事に出会い、半年だしそろそろ解禁しようと考えていたアルコール類をもう暫くは控えてみようかと、ふと思い直した。彼のメッセージは依存症の人々(私は依存症ではないが)らと同じ目線に立ち、自身の過去の体験を話し、伝えるというシンプルなものだが、これこそがアルコールや薬物の依存症の人々の世界を変え得るに足る希望の言葉だと思ったからだ(大袈裟かな)。注目すべきはアンソニーホプキンス自身が苦しむ人々にたいして「プレッシャーをかけるつもりはない」と前置きしつつ、更に自らを「未だ依存症克服の過程にある」と言っている事だ。えー、47年飲んでないのに。押し付けのない、非常にフラットな視点で自らの経験を語っている事に感銘を受けた。

人を見下して上から目線の三馬鹿と、彼らそれぞれが属する浅ましくも似たり寄ったりが集うコミュニティに身を置いた事で、いや、それだけが理由ではないが、昨年も様々な人からの悪意、詮索
、同調圧力など、本当に多く受け取ってしまい、自分らしく生きる事について改めて考えさせられた年の瀬となった。意地悪なスタンスで近づいてくる自己中心的な人達が多かった。

自分を労って、自分に優しくしてくださいということです。あなたを傷つける人たちがいたら、その有害な人たちの輪から離れてください。自分の心のままに生きて、自分の人生を誇りに思ってください。

アンソニーホプキンス

蛇足だが、
このメッセージは、新年最初に観た映画「かがみの孤城」ともリンクするように思う。

「かがみの孤城」は辻村深月の小説を原作とするアニメ化作品で、原作は本屋大賞受賞作の名作だ。オオカミさまという謎の少女により、孤城に集められた少年少女の物語であり、集められた彼らには"ある"共通点があった、というお話。

2022年冬公開

原作:辻村深月「かがみの孤城」(ポプラ社刊)
監督:原恵一
配給:松竹
アニメーション制作:A-1 Pictures

(c)2022「かがみの孤城」製作委員会

この映画は原作の極めて小説的な叙述トリックをうまく映像に落とし込んでいたと思うし、何より原作の素晴らしさに触れるきっかけになるなら、との気持ちで観たが、アニメーション表現については個人的に言いたいこともいくつかあるので、またそれは別の機会にでも。

さて、これは私がこの作品に関心がある理由なのだが、私はフリースクールが併設された施設内で働いていた経験というものがある。そして、そこに通う生徒らと休憩時間や放課後に話すことがあった。交流がかつてあった。本作で焦点が当たるのは実はまさに彼ら、不就学児童という存在である。様々な理由で学校に通えなくなった彼らにとってセーフティネットとして機能しているこの施設で、私は幸いと言おうか職員ではないニュートラルで利害関係のない立場で生徒らと接し、そして彼らを前に自然と口をついたのは私自身の出生やそれに伴う経験の話などであった。まず、これは彼らを助けるとかいう思い上がった気持ちからの話では全くなく、むしろその逆で、私自身にとって、自身の過去を解放する意味で本当に意義があったと思っているのだ。年齢とか人生経験というものを振りかざし、押し付けるのではない、自然体の関わり方だったかなと思っている。

そもそも私は学校よりは映画館や図書館に行っている事が多いタイプの子供時代ではあったが、親は放任主義、悪く言えば無関心だったのでまんまとそちらばかり行っていた。けれど、かつて学生だった経験がある世の中の人達も、屈託無く毎日学校に通っていたなんていう人の方が実は少数の筈である。恐らくは大なり小なり色々な思いを抱えつつ世間体なんてものと折り合いをつけて、或いはなし崩し的に学校に通っていたとか、そういう人の方が多いのではないだろうか。作品のキャラクターである真田のような意地悪な存在に嫌な思いをした人達も案外多くいるのだと思う。
時代が変わってもいくつになっても真田はどの世界にも居るので、今でも悩みの種だが。

そして、何となくそんな私達だったからこそ想像する事ができるのは「彼ら」自身が何かしら問題を抱えているという事は実は殆どなく、周囲の無理解こそが問題の本質なのだろうという事。ガワだけのセーフティネットなどというものは幾らでも行政は作れるだろうが、まさに孤城の中で(叙述トリックの先の)少年少女の「立場」で語り合う事こそ救済と解放の道なのだと本作で教えられた気がしている。あまりネタバレはできないのだが、案外このファンタジー世界で提示された、オオカミさまが用意した「孤城」というセーフティネットは、その設定と案外同質のものが現実社会でも機能しているのではないかとも思うのだ。その一つがSNSなのではないか。あとは、我々の使い方次第であるし、この作品が一人でも多くの子供達と、かつて子供だった大人達に届く事を望んでいるし、そして自分が真田の側ではない人間としてちゃんと今も生きることが出来ているかを真に振り返るきっかけになればと思う。そして、真田を生み出すガワにもならぬよう身を引き締めて生きたい。

撮影:GFX100S

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