私の履歴書②両親へのカムアウト

「ヒカルを見ていると、昔の自分を見ている気がする。」

高校生か学生の頃だったか、
ぽつんと独りつぶやくように、
時々、母は私に言った。

なんかその言葉のトーンが
やけに意味深な感じで、

「いったい、私の何を知ってるというんだ」

と心の中でものすごく反発していた。


両親とは決して
不仲というわけではなかったが、
中学高校ぐらいから
人並みに我が家でも
忙しさにかまけて
親子の会話は減っていった。


父は父で、男親というのは
そういうものかもしれないが
仕事熱心だったが、
仕事の話を息子の前で
語るようなことは一切なかった。


父は愛知県の片田舎の生まれで
野球で中日が勝利すれば大喜びしたり、
昔懐かしい甘干し芋(あまほしいも)を
貧乏くさく嬉しそうに
食べることはあっても
父の感情の豊かな起伏というものを
あまり感じたことはなかったと思う。

(甘干し芋。すごく地味なお菓子。)

家でも家族団らんなんてお構いなしで
ひたすらパソコンに向かって
寡黙に仕事をしていることなんて
しょっちゅうだった。

父は無愛想とまではいかないものの、
何を考えているのか
当時の自分には
よくわからなかったし、
自分から父のことを
積極的に理解しようと思えるほど
私も大人ではなかった。

*************

母は自宅で薬屋を
女手独りで切り盛りしていて、
リストカットを何度もしている女性や
車いすでよく来てくださる
お客さんの話、
はたまた夫が男性と関係を持っている
のではないか心配といった相談まで、

母はよく自宅の1階のお店で
お客さんのよろずの悩みを
粘り強くいつまでも聞いてあげていた。

お客さんと延々と話し込む姿に
なんとなく人様のお役にたって
頑張っているんだなというのは
子どもながらも
少しは肌で感じとることはできた。


相談を聴くのがついつい長引いて
晩飯ができるのが遅れて
とてもじゃないけど
待っていられないから、
冷蔵庫を適当にあさって
出来合いのもので
すっかり腹ごしらえしてしまった頃、

「晩御飯、遅れてごめんね~。ついついお客さんと話し込んじゃって‥‥」

「え~もう晩御飯たべちゃったの?せっかく今夜は腕によりをかけて、作ろうと思っていたのに!」

みたいな、
お決まりの母子のやりとりが
何度となく、我が家で繰り返された。


たぶん、母は
仕事のことを口にしない父と違って
自分が接客の中で見聞きした
人様の生々しい人生の波乱を、
息子に語って
分かちあいたかったと思う。


でも、自分は学校生活を
のんきに楽しんでいて忙しく、
どこかで母の話を半分聞き流していて
きっと聞き手としては、
物足りなかったはずだ。

**************

ともあれ、親は基本的には
なんだかんだ、
息子を信頼しているのか
いい意味で放任主義で、
息子は息子で反抗期を経て
自立心がほどほどにあり、

家族の一人一人が
学校生活に、仕事にとあけくれていて
程よい距離感で、
それなりにうまく
家族関係は回転していたように思う。

でも、きっすいの江戸っ子で
人情深く涙もろい母が、
ときどき壊れたように
ヒステリーを起こして
家じゅうのものを投げまくり
床一面、足の踏み場が
なくなることがあった。

ヒステリーが始まると
私は自分の部屋に閉じこもり、
物が投げつけられる激しい音が静まり
母のヒステリーの嵐がおさまるまで
じっと息をひそめ
耐えなければならなかった。

誰にも吐き出すことのできぬ
言うにやまれぬ母の思いが
一体何なのか
当時の幼い自分には知るよしもない。

物をたたきつけまくること、数時間。
投げつける物がなくなったのか、
それとも新しく物を投げようにも
散乱した物で
足の踏み場がなくなって
身動きがとれなくなったのか。

少しは気がすんで
心の嵐が過ぎ去った母は
冷静になって
床に散乱したものを片付け始め、
しばらくするとケロリとして
いつもの陽気で快活な
普段の母に戻っていった。

他の一般家庭を知らない私は
母のヒステリーには
すっかり慣れっこになってしまって
特に悩みもしなかったし、
何が母をこうも
ヒステリーにかきたてるのか
その命の深い痛みに寄り添い
知ってあげようともしなかった。

カムアウトをして
親とお互い、いろんなことを
今まで以上に踏み込んで
気軽に話せるようになった今なら
少しは母の気持ちを
わかってあげられるのでは
ないかと思う。

母がまだ幼い、戦後間もない頃、
苦しい生計をしのぐために
懸命に働いていた祖母は
病弱で寝込みがちだった
祖父をいっとき捨てて、
お米などの担ぎ屋をしていた
別の男性と浮気をして
しばらく家出をした。

幼い母の心には
自分が捨てられたという
忘れがたい強烈なトラウマが残った。

また、生まれながらにして
心臓弁膜症という難病を抱えて
生来、すごく病弱だった母は、
母とは正反対で
男まさりで働き者の姉に
穀(ごく)つぶしだ、なんだかんだと
と陰に陽に徹底的にいじめ抜かれ、

祖父母も見て見ぬふりをして
止めようとしなかったという
忌まわしい原体験があった。

祖父は
母が病弱で通学できないからと
大学への進学を3年間許さなかったが、
母は一刻も早く
祖父母の家を出られるように
健康に留意し、
勉強して、勉強し抜いて、
祖父を説き伏せ、

当時の女性としては
まだまだ珍しいことだったようだが
大学の薬学部に合格した。


卒業して薬剤師として手に職をつけ、
家を出る夢をかなえたものの、
祖父母や姉との間にできた確執や
深い心の傷が
完全にいえたわけでは無論ない。

**************

そんなことがかつて母にあったとは
夢にも思わない私は私で、
保育園の時から
ゲイであることを自覚し、

自分は結婚できないんだから
人一倍勉強して
独りで生きて
いかなければならないと
小学校の頃から思いつめていた。

いま思うと、
本当にマセたガキだったと思う。

小学校高学年で
生き急ぐように
塾に行かせてほしいと
親に頼み込む姿に、

母は自分の苦しかった大学受験時代や
連日、夜遅くまで実験に明け暮れた
薬学部時代を
重ね合わせていたのかもしれない。

(父の生家から徒歩10数分の美しい海)

5人兄弟の長男だった父は父で、
代々の家業である農家を
長男として継ぎたくはない一心で、
ひたすら勉強して
医療関係の技術者となった。

祖父母の代で家業を絶えさせてしまい、
祖父母の面倒も
次弟にさせている自分の歴史を
心をどこか閉ざした、
かたくなな息子に
重ね合わせていたのかもしれない。

生き急ぎ、少しでも背伸びして
社会の息吹を
見聞きしたかった私にとって
仕事のことを一切語らない父は
無味乾燥としすぎていて
魅力少なげに映った。

*************

そんな私は
電車で1時間半ほど離れた
高校の親友の家に
しょっちゅう泊まって入りびたり、

友達の父親が
酔っぱらって帰ってきて
仕事や世間のよもやま話を
面白おかしく語ったりするのを
友達の一家と食卓を囲んで
夜な夜な楽しんだ。

自宅ではあまり話を
しなくなった私が
親友の親には
いきいきと、あれやこれや
楽しそうに語っているという話を
時々母は、
その友達の母親から聞されていた。

実家を早く出たかった
母にとって、
家族との暖かな団らんは
言うまでもなく、
とても大切で、
なんとしても
手に入れたかったはずだ。

母はその友達の母親のことを
感謝と愛嬌の意味を込めて
「養母」と呼んでいたが、
中々心を開こうとしない
息子のことを
本当はどこか寂しい思いで
見守っていたのかなと
今では本当に
すごく申し訳なく思う。

(駒場寮:学生時代はこんな所で生活してました汗)

大学は自宅から十分通えたのに
家賃が月4000円の
大正時代に作られた
蜘蛛の巣とつたが巣くう
あばら家のような駒場寮に
寄宿することを私が決めたため
親はもちろんのこと、
多くの友達が驚いた。

親元を離れて自立するといえば
聞こえはいいが
見方によっては実家が嫌いなだけで
親へのあてこすりなのではないかと
見えないこともなかった。

実際のところは
尊敬していた創価学会の先輩と
共同生活が送れるし、
寮で学生部の同志と
和気あいあい住んだ方が楽しいから
というすごく
単純な理由だったのだが。

大学に入ってますます
家にほとんど寄りつこうとしない
息子の姿に
両親は自身の若き日の
実家への屈折した思いを
どこかで重ね合わせていた
のではないだろうか。

************

私は20歳という
人生の一つの節目を迎えた頃、

それまで勉学や学校行事にかまけて
むき合うことを避けてきた
自分がゲイであるという
紛れもない事実に
病的なまでに深刻に
悩むようになった。


その後、
「私の履歴書①」でも少し書いたが、

親に先んじて
信頼している大学の後輩や学友に
少しずつ、葛藤しながら
カムアウトを始めた。

両親は、もともとは、
私を産むつもりはなかった。

心臓が弱いので
子供は生涯産めないだろうと
いわれた母が、
兄を産んだときは
生死を何度もさ迷って、

父は
「頼むから、もう二人目は諦めてくれ」
と母に懇請したという。

父自身も
描かれているベーチェット病という
厚労省指定の原因不明の難病で
やがて失明にいたる
不治の病を患っており、
(※幸い、父は発症して50年近いのに
 病気の進行が非常に遅く
 いまだ視力はしっかりしていて
 ピンピンしている)

私の視力が
単なる近視で悪くなるにしたがって
子どもに病気が
遺伝したのではないかと
得体のしれぬ病魔の脅威に
常におののいていた。

そんな父母が並々ならぬ
覚悟をしてくれたおかげで
私は生を授かることができた。
しかも私の出産は帝王切開で
19針を縫う大手術だった。

放任主義と息子の前ではうそぶいて
多くを語らずとも
私のことをいつもどこかで見守り、

ゲイであることに
あまりに不器用に悩んでいる私を見て
私が何かとてつもなく大きな問題に
ぶち当たっていることに
うすうす感づいていたに違いない。

私は平然と
「何も悩んでいません」
といったすました姿態を
とれるほど器用ではなく、
母の江戸っ子の血なのか
バカ正直で
顔にすぐ出るたちだった。

************

そんな25歳のある日‥‥
私は意を決して、
母を和室に独り呼んだ。

「大事な話がある」

人生初のカムアウトから
すでに4年がたとうとしていた。

(続く)

2012年2月25日記す
(2024年3月7日加筆)

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