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なやみごと

私には高校一年生の妹がいる。
妹ははつらつとしていて学級委員など積極的に手を挙げるタイプで、私はできるだけ目立たないように教室の隅にいたタイプ。はたから見ると真逆に見えるかもしれないけど、同じ親に育てられて、ずっと同じ家に住んでいるのだ。物事の捉え方とか価値観の根っこが似ていて、話しやすい。ついつい彼女には悩み事やどうでもいいことも、なんでも聞いてもらいたくなってしまう。

今日のお昼ご飯は妹と2人きり。今回は私が聞き手だ。

彼女は文理選択の時期を前にして悩んでいた。
高校生活のこと、大学のこと、大人になってからのこと。悩み事は尽きない。

「大人って何にもわかってない」

彼女はいう。
そうだね、と頷くと同時に、高校生の頃の私がひょっこり顔を覗かせた。

本当にそうだった。
大人は何にもわかってなかった。

「自信を持っていいんだよ」と言われても、私はこれで通常運転なのだ。そういった類の言葉は、私のただでさえ頼りない自信を度々吸い取っていった。
私の中で、優しさのつもりでかけられたその言葉たちは「君は自信を持っていない」「自信を持たなきゃいけない」という責め立てる言葉に変換され、私を苦しめた。君はありのままでは社会では生きていけないのだよと言われているように感じた。

「やりたいことをやればいいのよ」と言われても、その「やりたいこと」がわからなかった。自分の人生をひっくり返すようなドラマチックな展開があれば「やりたいこと」も見つかっただろうか、それか「後継ぎにならなきゃいけない」みたいなトクベツな事情があって自分の将来はもう決められている、みたいな状況だったら楽だったのかなあと何度も妄想した。

「自主的に」「積極性を持って」。進路について考えるとき、どこにいっても現れるそういった言葉たちは社会が求める「理想の人間像」をペタペタと成形し、そういった像に馴染まない私を振り回して弾いた。私はそれでもしがみつきたくて、弾かれるたびに泣いた。

大人も子供も、持っている人生の選択肢の量は同じだと思う。でも、学生は大人の100倍の量の選択肢を見ていると思う。そして、100倍ぼんやりしていると思う。だから、不安でいっぱいになって当たり前だと思う。

あの、まさしく一寸先は闇、な無感覚を忘れたくないと思った。
私は、わかったふりをするだけの大人より、一緒に「わからないよなあ」って悩むことのできる大人になりたい。

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