見出し画像

「他力本願」という言葉の意味

他力本願という言葉は、実は仏教の用語だったんです。 仏語。
自らの修行の功徳によって悟りを得るのではなく、阿弥陀仏の本願によって救済されること。』
つまり、自分の力にとらわれることなく、阿弥陀さまのお力にすがることが悟りに近づく道だ、という有り難い言葉なのです。

他力本願→「他の力をあてにする」の使い方は間違い? 正しい意味と使い方とは?

そういうわけで、自我の意思と思考に基づく計画&行動&努力で達成するのではなく、自分の中の意識から創造の源に繋がって臨む現実を得るという意味なのでした。

「自分の中の意識から創造の源に繋がる」というのは、心の摩擦となる観念及び思考から自らを解放し、心地よい状態で願いが叶っている状態の気持ちになった時、自動的にそうなっているわけです。

もちろん、何も願いがない状態で「ただ在る」という、言い換えるなら「無」の状態になれた時も同じ。
上記の状態より意識が深く広がっている感覚。
「無」とは全ての中に存在している「有」でもあるわけで。
どこにでも意識があるが、どこにも実体はないといった感覚。

ちなみに、日本に於ける「他力本願」の用いられ方は、仏教用語として使われていた意味の誤用表現が定着したもの。

「煮詰まる」の本来の意味が「機が熟す」から「行き詰まる」に誤用表現され定着したのと同じパターン。

他にもいろいろあるのかもしれないですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?