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たとえわずかでも、自分の加害性から逃れられない

インタビューがあるため、宇都宮へ。
電車内で、携帯でも進められる仕事をこつこつとやる。本当は読書をしたい気持ちを抑えて、でもお家でゆっくりしたいもんと思いながら進める。

ふと、古河あたりで顔を上げると田畑が広がっていた。車窓の向こうに宝石のような黄金色の煌めきが広がっていて、惜しいことをしたと思った。胸いっぱいに、秋を抱きしめる。

わたしの書く詩には、車窓の描写が度々出てくる(隠れている)。それぞれの生活(それは人間以外でも)が垣間見える、この長方形を愛しているのよ。

こうした誰とも会話をしていない時間 一人 自分と心で対話していると、ぐっと自分の失言の瞬間に引きずり下ろされ罪悪感に苛まれることがある。(みんなもあるかしら)
たとえば、相手の特性に気づけずに何故できないのかと不思議に思ってしまったアルバイト時代。
たとえば、せっかく重要なことを話してくれたのにどう受け止めていいかわからず どうってことないよと間違った励まし方をしてしまった18歳の雨の日。

現在、自分が自覚している 無自覚に人を傷つけてしまいそうなジャンルは 障害、宗教、国籍(な気がする)。学んで知って気をつけて、気をつけてもなお、知識のなさが追い越していく。でも本当はジャンルにくくれないほど、見えてない存在(もしくはアイデンティティ)がいくつもあるんだろう。わたしも、ある側面では見えていないねと感じることもあるし。
アイデンティティをその人のすべてだと紐付けずに、それでもその人の大事なアイデンティティであると考えることは常々気を配りながらも
どんなに気をつけていたって、自分の加害性から逃れられない。

愛情だってそうだ。
秘めている間はまだ良いが、どんなに丁寧に渡しても傷をつける。人々は「傷」が悪いものと信じて疑わないが、きっと良い作用があるもの(たとえばハッとした、など)だって傷だ。好意が怖い人だっているだろう。
どんなものでも、わたしはそれを(時にわずかに嬉しくも)恐れている。

それでもなお、わたしたちは
それぞれの我がままさを やさしく渡し合う。

湖と木々、人々の写真
自分と仕事を見つめる合宿に参加した。いまでも夢見心地。絵画みたいな風景だよね。
箱根・すすきの原の写真。日が暮れた晴れた空、遠くには山が連なっている。
こなつさんと箱根へ。
遠くで鹿がきゅーーーんとないている。
こなつさんとバイバイした後は、原田郁子さんの「青い闇をまっさかさまに落ちてゆく流れ星を知っている」を聴きながら帰る。
アジフライの写真
8月、仙台で食べたアジフライ
これが本当に美味しくて、いまだに「もうひと皿いけたな」と思う
アジフライを見る度に君のことばかり考えてしまうよ
映画「あしたの少女(原題:다음 소희)」のポスター
最近見た中で心に残っている映画
ごうごうと泣いてしまった
わたしたちは数字ではなく、存在である

最近はガザに心を向けながら、目を向けながら生活している。
自分の無知を恥つつも、日本がそれを教育の範囲で教えてくれる国になってほしいし
ここから知っていくことは、善意ではなく
それこそ自身の加害性に向き合っていくための一歩だ。(だから苦しい)

2023年10月23日に行なわれた、ガザを知る緊急セミナーを添えて。

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