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第8章 ばらばらの言葉✴︎物語 『トキのフィルム』

8.

 目が覚めると、またわたしはリリだった。体がベッドに押し付けられるように重たい。窓のサイズにあっていないカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。上の階の住人が掃除機をかける音が聞こえる。わたしの体以外のすべてがわたしに「起きろ」と言っているみたいでイライラした。やりたいことも、やらなければならないことも山積みだったけれど、それをこなすにはわたしの体が小さすぎる。わたしは向きを変えた体を丸めてもう一度目を閉じた。トキは本を読んでいるようだ。悲しみや怒りはわたしの許可なく突然に大量にやってくる。その感情にわたしは無理やり理由をこじつけているけれど、本当はそんなものはないと知っている。わたしはこの感情を体験しやり過ごすしかない。逃げれば逃げるほどいつまでも追いかけられて、新しい悲しみの波に埋め尽くされてしまうから。ヘッドフォンから大音量のギターが流れる。音楽は思考を止めて、その代わりに心の音量を大きくしてくれる。ギターの音がわたしの体を巡って頭の中のぐるぐるしたくだらないものたちがストップし浮遊した。だからわたしは音楽が好きだ。わたしも楽器が弾けたらどんなにいいだろうと思いながら、わたしはいつも音楽を遠くから見ている。
 まるで瞬間ごとに体重が変化しているみたいに、気分が重たくなったり軽くなったりする。「大丈夫」と思えた次の瞬間にはまた絶望の気持ちが押し寄せる。トキはその横で本を読んでいるだけだったけれど、わたしは彼がいてくれることに安心してベッドの中でグズグズしている。トキがいてよかった。わたしがどんなに醜いことを考えても、体が動かなくても、ポンコツで役に立たなくても、寂しがりやの子供でも、トキは決してわたしを否定しない。体の芯がほっとして温かくなってきたので、わたしはやっとベッドから起き上がりカーテンを開けた。心の端っこの方で「太陽大好き!」と声が聞こえて笑った。十分前は消えてしまえと思っていた太陽が今では大好きなリリの体は奇妙だ。わたしもトキと一緒に本を読むことにした。最近わたしたちは声に出して詩を読むのが好きだった。トキはわたしが朗読する詩にぴったりなフィルムを見せてくれた。今まで知らなかった青色にわたしは心を動かされる。料理のように、化学反応のように、詩を読み上げている間だけその青が見える。目には見えない素晴らしい色だ。知らなかった青色のドレスを着て、わたしは大きな猫に乗り草原を駆ける。グリーンと空のブルー、わたしの青が絵みたいに光っている。トキはその横をゆっくりと飛んだ。わたしたちは風を感じて水平に動いている。喫茶店でナポリタンが食べたい。ふと思ったわたしはイメージの世界から小さなアパートに戻ってきてお腹を空かせていた。トキは笑って「ナポリタン、サイコー」と言いながら立ち上がり、わたしたちは元気に玄関を飛び出した。
 
 満腹になったわたしは水が入ったグラスを指でこする。デザートも食べちゃおうかなと考えていると、トキは「賛成!」と喜んだ。彼はわたしの好きな食べ物が好きで、わたしの嫌いな食べ物が嫌いだった。迷った末に、我々はクレームブリュレのアイスクリームトッピングを分け合って食べることにした。温度差と重なる食感が大好きだ。甘く溶ける黄色いクリームが口に広がるとき、大げさじゃなくわたしは人間に生まれてよかったと思った。食べることができて、触ることができて、眠ることができる。わたしは朝に感じていた体のだるさをすっかり忘れてしまって「生きててよかった〜」なんてご機嫌に発言できるほどに回復していた。トキは「リリが生きててよかった!」とわたしと同じくらい嬉しそうに言った。わたしはトキのフィルムを詳細にメモすることが習慣になっていて、わたしの携帯のフォルダは文字で埋め尽くされている。
 「詩か小説か、曲を書いてみるつもりなんだ。」
 とわたしが言うとトキは笑ってくれた。イラストや漫画のことを考えるとベルちゃんを思い出す。胸が狭くなるのを感じてわたしは慌てて言葉について考えることに集中した。この不思議で美しい映像たちを、どうやって作品にしようかな。内容やコンセプトよりも早く、表紙や本そのものの感触が浮かんでくる。水色の薄い詩集と、やさしいピンク色の表紙の、夢の中みたいな小説。わたしはその本を作るために文章を書く。書きたい文章があってそれを本にするのとは全く逆だ。その本を現すためにせっせと内容を、行間を埋めていく。その空白のページに書かれているはずの言葉たちを探し当てて、水に浸すと文字が現れる紙のようにふんわりと浮かび上がってくるのを待つ。コンサートに行くとそういうバラバラの言葉が宙に浮かんでいるのを見ることがある。それは演奏者の心を映し出し音楽に乗って現れる場合もあるし、全くランダムなものが飛び交うこともある。そのどちらなのかはなんとなくしかわからない。だけどそれらはなんとか自分の力でわたしの元にやってきた言葉たちだから、わたしも誠意を持ってせっせとそれをメモにとる。長い旅をしてわたしを探しにきた小さな動物みたいに愛おしくて、抱きしめるといい匂いがする。行間を埋める。行間を埋める。どこからきたのかわからない動物たちを歓迎し愛してあげる。
 「いい才能だね。その力を使っていればリリはもっと綺麗になる。」
 とトキは言ったけれどわたしにはその意味がわからなかった。ふわっと動物のいい香りがしただけだ。目の前にある食べかけのデザートと汚れたフォークやおしぼりと並行してどこか遠い国の小道が見える。いつだったか、約束したんだよね。わたしはこの目で一度も見たことがない年配の男の人が、ドアの向こうで木彫りをしている映像を見た。このドアを開ければ彼がいるのだ。生まれたての木みたいな色のつなぎの服を着て、黒い光のような眼差しでピカピカの彫刻刀を動かす。彼にはわたしの言っていることが通じて、いつも家でわたしを待っていてくれる。その安心感から、わたしはまた戦いに出かけることができるのだ。わたしはずっとこんな気持ちでいる。「ずっとっていつから?」というトキの声がイメージを増幅させる。その小屋の中で、わたしは彼と一緒に世界から隠れるように暮らした。誰にも会わない、どこへも行かない。だけどそこには彼とわたしと、小さい男の子が・・・
 
 カチャンとグラスを持ち上げる音で映像がパッと消えた。店員がわたしのグラスに水を注ぐ。トキは頬杖をついてその水を見ていた。わたしは鼻から深く息を吸い込む。喉の奥がじわっと熱い。
 「それで、約束って?」
 トキがたずねた。
 「どうしようかな。これがなんの物語なのかすらわからないよ。」
 わたしはヴィジョンでみた街の様子を思いだす。わたしはいつかその街を見つけて、ザラザラで冷たい石の壁を触るのだろう。思い出せる限りの内容をメモにとるけれど、鮮やかさが消えてしまったのでやめた。なぜ言葉にすると解像度が落ちてしまうのだろう。わたしの体を通って出てきたものはなぜこんなに小さく変換されてしまうのだ。
 「悲しいよ。」
 わたしはトキに言ってみる。残りのアイスクリームをかき回して、冷房がきいた部屋から外を見ると、汗をかきながらスーツの男の人たちが足早に歩いている。
 
 世界たちはひとつになれない。わたしの世界と誰かの世界はひとつになれない。その事実に絶望することもあれば、自由を感じて嬉しくなることもある。トキ、わたしにはあなたがいてよかったよ。

#創作大賞2023

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