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20歳になりました。

こんにちは。森本陽加里です。
2022.6.27 20歳になりました。

今回は、せっかくの節目なので、20歳までを振り返って、これからの20年、30年、40年をより生き抜いていけるよう、文字で記録を残します。

心を生き返らせるための直島・豊島旅


20歳になる少し前。5月28日、私は私がわからなくなっていた。
いつからか、「私のやりたいことはFocus onです!」と言うようになっていたし、自分自身も当たり前にそう思っていた。いつからか。ここ数年くらいの話なのに、もうずっと長いことそう信じているかのように錯覚していた。

「Focus onを一旦忘れたほうがいい」
「ひかりは原体験に依存しすぎている」
その言葉が、上手く消化できず、苦しかった。

私の記憶や体験、想いを、他人に社会貢献だの、原体験への依存だの、(ビジネスにおいての)売りはどこなのだの、正直ほっといてほしかった。
他人からの無責任なコメントで自分自身の体験に、想いに、やりたいことに対して疑心暗鬼になってしまっていた。

もっとゆっくり考えたい、そう思い、私は、2泊3日休みを決めて、島に来た。今日はその3日目。
海を眺めてぼーっとしたり、宿のホストさんと一緒に見た夕日や交わした言葉を思い出しながら、「私のやりたいことって、こんなことだったんじゃないかな」、そんなことを綴りたい。

みんなも我慢してたんじゃないの?

私は、学校では”できる子”だった。勉強もできる、発表もさせればよくしゃべる、学級委員なんかもしたことがあったし、先生とも仲が良く、友人もそれなりに多かった。周囲から見れば、何故不登校になったのか、わからないような状況だったと思うし、なぜ復学できないのかわからなかったと思う。

正直、私も分からなかった。

私が、学校生活の中で、人一倍生きづらい思いをし、我慢を重ね、頑張って無理していたことに気づいたのは、小学3.4年生だった。祖母の指摘を受け、病院を受診し、「発達障害」の診断を受けたのだった。

診断を受けたことで、私の特性がわかった。生きづらさがわかった。母は、私が不登校になった理由、復学できない理由が、少しわかった気がしたようだった。しかし、私は当初、特性の話をされても、私の生きづらさ・困っていることの話をされても、理解ができなかった。

だって、
「みんなも我慢してるんじゃないの?」
そう思っていたからだ。

当時の私は、クラスメイトと同級生を心底尊敬していた。
「こんなに音が痛くて、うるさくて、とてつもなくしんどい”学校”で、みんなは我慢して、そのうえで笑顔で楽しそうにしている。なんてすごいんだ。」
と同時に、
「みんな我慢しながらも楽しそうなのに、私は我慢することもままならない。なんて頑張れていないんだ。」
とも思っていた。

私は本当に困っているのか?困っているといってもいいの?

発達障害がわかってから、病院やカウンセリング、通級指導教室などに行った。小学4年生の頃には、母が見つけてきた発達障害児者支援団体にも所属し、学習会に定期的に通った。

しかし、そこで私は、「できる子」「比較的問題がない子」になってしまった。

学校生活はどうしてもうまくいかない、長続きしない。どうしても、”みんなと同じように”できない。困った。苦しい。何とかしてほしい。
一方で、支援団体等の活動に行くと、あの子より困ってないかも。私って困ってないのかな。やはり自分の我慢不足ではないか。
と、自分は困っているといってもいいのか?本当は困っていないんじゃないかと疑心暗鬼になった。また、誰かと比較せずに、誰かよりも困ってる/誰かよりも困っていないとかではなく、私の”困った、助けて”という声を、ただただ認めてほしかった

私の”困った”という声を聴いてほしいがために、わざと、できることもできないと言った。そんなとこ困っていない/違うと思った支援・サポートであっても、「いらない/違う」と断って、こっちを見てもらえなくなるより良いと、支援や支援者に合わせた彼らの期待する発達障害の私になりきった

私の”困った、助けて”という声を、ただただ認めてほしい、そんな願いは強くなるばかりだった。

私の困ってること、ちゃんと翻訳されてる?私が生きるための支援なのに、私の発言できる機会はどこ?

小学5年生になっても、自分が「困っている」といっていいのかはわからなかった。同じことを言っても、「確かに困ってるね」と認めてくれる人もいれば、「そんなの困ってない。みんな同じだ。」「そもそも本当に発達障害なのか?」と言うような人もいた。

それでも、小学5年生の頃から学校でも、支援団体でも徐々に私に合った支援を受けられるようになった。このような状態は、小学校卒業後、中高と続き、今も大学の障害学生支援室に都度都度お世話になっている。

しかし、「支援がされるようになったから、もう大丈夫。」ということにはならなかった。

とにかく、「そうじゃない」「目立つから本当は嫌だ」「これは、いつもじゃなくてしんどい時だけ手伝ってほしいよ」みたいな支援が多かったし、それを伝える術がないことにモヤモヤした。

そして、ある時気付いた。
そもそも、お母さんが先生に伝えている情報が、私の言いたいこと・表現したい感覚とは違うのではないか?そして、それを受け取る先生の解釈も一致していないのではないか?と。

その、もはや発信源(保護者等一番身近な支援者)の時点からずれている情報が誤認識され、誤解釈されたすえに”支援”という形で私に戻ってくる。
「最初の私の感覚の翻訳・表現から間違っているなら、正しいものが支援として返ってくるわけなくない?」そんなことを思った。

しかし、だからといって、「ママ・パパ、そうじゃないよ」「先生、そうじゃないよ」なんて言えなかった。

親(私の場合は特に母)が仕事や家事の時間も削って必死で私と向き合うとしてくれていたことも、母や先生がわざわざ時間と労力を割いて話し合ってくれていることも知っていたし、私は二人とも大好きだった。だから、そんな二人に”文句”を言うような形になる「この支援違う!!」は伝えられなかった。
それ以上に、そもそも言葉で上手く表現できなかった

私が変えたい、困っていた点は2段階なのではないか。

私は、Focus onという発達障害児・者支援アプリを開発している。開発に際して、私が解決したいとよく口にする課題感は、このようなものだ。

「特に学校内で支援してもらったとき、お母さんも先生も頑張ってくれているのに、なぜかうまくいかない・時間がとてつもなくかかる事ばかりだった。また、そんな周囲の人の頑張りの元できた支援に、”なんか合わない”なんて言えなかった。もっと何とかならないものか。」
ひとつ前の見出しで話した内容だ。

支援されること自体を緩やかながら受け入れてきたころ、やってもらえること・気にかけてもらえることはうれしいけど、これ目立つからやだ!!だとか、これありがたいけど、ずっとはいらない!しんどい時だけ手伝って!とか言いたかった。
また、私のことなのに、大人の間だけで決められていく違和感や矛盾みたいなもの。さらに、大人がいないと上手くいかないなら、この先生のクラスじゃなくなったら、この学校を卒業したら、お母さんがいなくなったら、私は自分の特性とどう付き合っていけばいいの?という不安・もやもやもあった。

だが、今回の島旅で、いろんなことを思い出す中で、「私が持っている課題感は2段階なのではないか」と感じ始めた。

①”困っている、助けて”の声を聴いてもらえないこと。”困っている、助ける”対象にすら見てもらえないこと。素直に、「私、困ってる気がする。なんかいろいろしんどい」と言わせてほしかった。
②学校や会社等で支援してもらう際、当事者の感覚や(支援への感想含め)
意見を支援者に知ってほしいし、それを反映しながら情報共有を円滑にし、試行錯誤できるものになっていってほしい。
(そして、(親等の)支援者がいなくなった後も、自分の特性とうまく付き合っていけるようになりたい・してほしい。)

これが、”Focus on”というアプリに反映されているのではと思うようになった。

私が、これから成し遂げたいこと

正直、自分が困っている/人一倍我慢していることにも気づいておらず、自分は頑張れていないと自分を責め続けることしかできなかった時、20歳まで生きているなんて思っていなかった。毎日、いつ死のうか、どう死のうか、どうやってここからいなくなろうか、を考えていた。

今でこそ、色んなイベント等に参加して”ビジョン”なるものを掲げているけれど、つまるところ、私は、そんな得体の知れない地獄の中で生き延びてくれた自分自身に恩返しがしたい。小学3年生の、あの頃の私が、笑顔で楽しく毎日を過ごせて、自分を強烈に嫌いになったり、自分に嘘をつかずとも生きられる、そんな世界を創りたい。

私は、過去から現在の私を含めた、自分みたいな人(”普通”の中で頑張れば生きていけちゃう人。でもぽきっと折れちゃう人。)が「困ってる。大変。しんどい。」と言える、そしてそんな「困ってます」というヘルプを聞いてくれる人がいる社会を作っていきたい。”支援・サポート”と一口に言っても、1-10まで手取り足取りではなく、「知っておいてもらうだけでいい」「しんどい時だけ手伝ってほしい」そんな支援のグラデーションをもっと社会に浸透させたい。そのために、私から見えている世界、感覚、困っている部分を”覗く”ような感覚で人々が理解しあえるようにしていきたい。

私が、私として生きていくために、自分で自分を支援していけるような状態をつくりたい。
そして、そんな私の願いや実現していくサービスが自分と似た境遇の誰かの明日を変えていってくれれば、こんなに嬉しいことはない。

この思いを達成するまでは、20年後も、30年後、40年後も死ねない。

私は、自分に嘘をつかないために、自分に恩返ししていくために、まっすぐ、まっすぐ生きるよ。生き抜くよ。生き切るよ。

私へ。忘れないで。

最近の私は、”Focus on”について指摘されたり、アドバイスされたり、「Focus on から離れたほうがいい」と言われると、自分自身の経験自体を否定されたような気がして、自分自身を刃物で刺されたような気がして、痛かった。

確かに、私のやりたいこと・叶えたい願い・実現したい未来が、”Focus on”というイメージ/形に表せるのかもしれない。
でも、勘違いしないで。私は、”Focus on”のために生きているわけではなくて、私は、自分のやりたいこと/願い/実現したい未来のために生きるの。

私の人生全ての経験=Focus onではなくて、経験から感じている課題感を解決し、願いをかなえていくための手段としてFocus onがあるの。

「Focus on=私の生きる意味・人生全て」ではなく、私は、やりたいこと・願いのために生きるし、その願いを叶えるためにFocus onを創っていくの。それだけ、決して忘れないで、未来の私。

最後に

ここまで産み育ててくれたお母さん、お父さん、本当にありがとう。また、これまでの私の人生、これからの私の人生に関わってくれるすべての皆様、ありがとうございます。

20歳の私もどうぞよろしくお願いいたします。

2022.6.27
森本陽加里



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