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ダディの話 #1

「おーい!パパは3月で今の会社を退職する事になったぞ!」

先日家族のグループLINEに投稿されたダディからのメッセージ。姉や兄が先に「これまでお仕事お疲れ様でした」と労いを送る中、私も遅れを取らないように「お疲れ様!」とメッセージを送信した。
そうか、ダディももうそんな歳か。
定年なんてとっくに過ぎていたけれど、生活をしていくために同じ会社の契約社員として大型トラックの運転手を続けていた。契約社員になる前は長距離運転がメインで、本州の方まで単身赴任することもあったが、最近は年齢や体力を鑑みて会社近郊の運転を任されていたそうだ。そんなダディも3月で67歳になる。
え!?ダディ、もう67歳!?おじいちゃんじゃん!
スマートフォンを片手に、思わず大きな声が出てしまった。自分自身あまり年齢というものを気にすることなく生きてきたのだが、『父』という存在は特に年齢を気にしたことがなく、なんなら『父=歳を取らない、衰えない』スーパー人間だと勝手に思っていた。
私はお父さんっ子だ。我が家はいわゆる貧乏ってやつで、家族5人が住むには狭いボロボロのアパートに住んでいた。トイレなどの水回りには見たことがない虫が湧くし、母が片付けが少し苦手だったため、押入れからの視線を感じて目をやるとネズミがこちらを見て唖然としていたこともある。そんな家で私は実家を出る24歳ごろまで『奥の部屋』で敷布団を2枚ぴったり並べて、ダディと並んで寝ていた。世間でいうところの『寝室』が我が家でいう『奥の部屋』で、真ん中の部屋にはそれぞれのパーソナルエリアを確保するように2段ベッドが置かれていて、そこに姉と兄、母はリビングに布団を敷いて寝ていた。幼い頃からそうしていたので、夫婦が一つの寝室で一緒の布団で寝るということを「昔は玄関にめざしを吊るして魔除けをしていたんだよ」くらいの、今はほとんど行われていない少し信じられない出来事のように感じていた。
ダディを労いたい。定年祝いとして自分で稼いだお金で、両親に定年お疲れ様旅行的なものをプレゼントするのが普通なのだろうか。ちょっと良いお酒と、ちょっとしたおつまみを買って、二人で酒盛りをするのが良いのだろうか。あいにく私自身、売れない地方住みお笑い芸人という最もお金がない仕事をしているため、その『普通・良い』ことができない。けれど、たくさんのダディとの思い出を「どうだ!うちのダディすごいだろ!羨ましいだろ!」と自慢することはできる。だから、この場を借りてダディとの思い出をたくさん語っていこうと思う。

父と母の呼び方会議

「俺、パパって呼ぶの恥ずかしくなってきた」
そう言い始めたのは、私の5個上の兄だった。当時兄が思春期を超えた頃、急に家族会議の議題として提案してきたのだ。父親の呼び方についてはたくさん種類がある。パパ、お父さん、父さん、親父…兄にとっては、パパは子どもくさく、父さん・親父と呼ぶのは冷たい感じがするそうだ。
「私もママって呼ばれたくない」
母も、この際私も…と意見を出した。母は破天荒なタイプで、自分が母親として子どもたちに存在を振りかざすよりも、対等な友達のような関係が良いと話し始めたのだ。私も当時思春期真っ盛りで、母との関係がギクシャクしていたのを覚えている。その頃私は母のことをどうしてもママやお母さんと呼びたくないが故に「奥さん」と呼んでいて、今思えばその変な呼び方を問題視した姉と兄が、両親に呼び方会議を提案したのかもしれない。
母の呼び方については、下の名前から「みほちゃん」と呼ぶことにしようとすぐに決まったが、父の呼び方がなかなか決まらず、会議は難航していた。しばらくこうちゃく状態が続いた後、兄が「そういえば前にテレビで見たんだけど…」と切り出した。
「東野幸治は娘から“ダディ”って呼ばれてるんだって」
その話を聞いた瞬間に、姉も私もそれが良い!と賛同した。実際に、東野幸治さんは娘さんからダディと呼ばれていて、兄が偶然深夜番組でその話をしているのを見たそうだ。巡り巡って私自身、東野さんと同じ吉本に入るなんて思っても見なかったが、東野さんのおかげで何日も引きずりそうな呼び方会議が無事閉幕を迎えた。

お金はないけど幸せだから、貧乏じゃない

実家が貧乏だと気づくのには、だいぶ時間がかかった。お金がない方だろうとは思っていたのだが、私がイメージする『貧乏=お金がなくて幸せじゃない人』とはかけ離れていると思っていたからだ。両親は共働きではあったけれど、今は共働きもスタンダードの一つだし、3食しっかり食べさせてもらっていた。習い事や塾には行ったことはないけれど、家に帰れば家族の会話が楽しかった。テレビでよくある『実家貧乏タレントVS実家裕福タレント』のような討論番組で、貧乏代表のグラビアアイドルが「お兄ちゃんの誕生日ケーキを、家族みんなでフォークではなく箸で食べていた」というエピソードを話すと、次にカメラに映った他のタレントが少し引いたような顔をしていた。それを見たときに「あれ?うちもフォークじゃなくてみんな箸で食べるのに、これが普通ではないのだろうか」と世間と少しずれていると気付き始めた。でも、姉と兄の部屋には2段ベッドも学習机もあった。私の部屋にはどちらもなかったけれど、眠る前に一日こんなことがあったと報告して、「そっか、ひっこも大変だったな」と全てを受け止めてくれるダディがいた。(私は家族から、ひっこ、ひー、ぷー、ぷーたろうと呼ばれている。この場合におけるぷーたろうは世間が思う悪いイメージのものではなく、響きが可愛いからという理由だけで呼ばれていたものである)もちろん話を聞いてくれる代わりに、私もダディの仕事の話を聞く。リビングにストーブはあったが燃料費が高くつくし、家が狭いからこたつも置けないので、一枚の毛布を広げて家族みんなでそれに足を突っ込んで暖を取っていた。そんな家族だったから、お金はないけど幸せだった。だから貧乏ではないと思っていたのだ。今でも私自身お金はないけれど、そんなに焦っていないのはこの家に生まれ育った証なのかもしれない。しかし、いよいよ危機感を持たなければいけないと思うので、今日も夜はアルバイトだ。

こんな感じで、今後もダディのことを中心に家族の話をしていこうと思う。
先に言っておくが、ダディはちゃんと今も元気に生きているし、今でも野球少年くらいご飯を食べる。
家族の話は一見暗く見えるところもあるかもしれないが、本当にハッピーに育ててもらった。両親や姉、兄にはすごく感謝をしている。
きっとみほちゃんもこのnoteに辿り着くだろうけど、家族のことを話すのは恥ずかしいことじゃないと思っているので、今後も胸を張って更新していこうと思う。

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