思い出〜第2章 光凛 vol.1〜

「こんにちは!」

 都内某所のオフィスビルの中の大学受験対策を専門とする大手予備校の入口に、そう元気よく挨拶をする一人の少女の姿があった。童顔で少し高く個性的な声を持つとても小柄なこの少女は、高校生かどうかさえ怪しいほどに幼く見える。この光景を見たら誰もが少女のことをこの予備校の生徒だと思うに違いない。しかし、挨拶を終えた少女は小走りするかのような軽快な足取りで、受付裏へと回りスタッフルームの扉の前に立ち止まる。トトトンと扉を3回叩いた少女は、そのまま中へ吸い込まれて行った。

 少女の名前は山岸 光凛(やまぎし ひかり)。光凛は看護学を専攻する国立医療系大学の1年生であり、この予備校でスタッフとしてアルバイトをしている。145センチしかない身長や顔のパーツの重心が下に寄った丸い顔、アニメの中のキャラクターのような声、パッツン前髪、すっぴんとさほど変わらないメイク、動物や花がデザインされた可愛らしい服、少し落ち着きのない動作、光凛を構成するそれらひとつひとつの全てが、光凛を実際の年齢よりも若く幼く見せていた。恐らく光凛は自覚していなかったが、それらによって自分自身を敢えて周囲からの印象に寄せていってるようでもあった。

「やっぱり、山岸だ」
 光凛が中へ入った途端、スタッフルームの中にいた先輩の1人が言った。
「そうですよ〜!山岸ですよ〜!」
 光凛が元気に答えると、
「足音とノックでわかるよね」
「えー、それもあるけど声でしょ」
「ここにいても挨拶してる声聞こえるよね」
「山岸来ると山岸来た!ってすぐわかるよな」
 などとスタッフ達も返す。
「そんなにですか〜?」
スタッフ達と他愛もない会話をしながらも、光凛はくまちゃんのワッペンがついたお気に入りのトップスとデニムスカートから勤務用のネイビーのスーツへと着替えを終える。
「光凛って本当に着替え早いよね」
 更衣室のカーテンを開けた光凛に同僚の1人が声を掛ける。彼女は光凛と同期で中でも1番仲の良い畠山 結衣(はたけやま ゆい)だ。
「そうかな?運動部だったからかも」
「あ、でも靴履き替えるの忘れてる」
 テキパキしているようで少し抜けている光凛が可愛らしくて、結衣は思わず頬を緩ませる。
「えへ、また忘れてたや。ありがとう」
 そう言って光凛はキッズサイズのこれまたくまちゃんの刺繍入りのスニーカーからフォーマルな黒のパンプスへと履き替えた。

 身支度を整えた光凛は自分のロッカーをあけ、綺麗に畳まれた私服とをしまい、担当生徒の資料や自身のネームカードを取り出す。着替える前に予めカバンから出しておいた筆記用具とノートを手にしてスタッフルーム内のPC前の椅子に座った光凛は、慣れた手つきでログインをして、担当生徒の一人一人の学習進捗を確認していく。目にした情報ひとつひとつに一喜一憂しながら、それらを大好きなキャラクターが表紙に描かれたノートにメモしていく。確認すべき情報に一通り目を通し終えた光凛は、立ち上がると何かを探すかのように辺りを見渡した。

「どうした?光凛」
キョロキョロする光凛の様子を見て1人の先輩が声をかける。
「んとね、スマホどうしたっけなって」
「またか、更衣室の中は見た?」
「あ、見てみる」
光凛はよくスマホを失くす。失くすと言うよりは置いた場所を忘れるのだ。その頻度は光凛がスマホを探している姿を見たことがないスタッフはこの校舎にはいないと言っても過言ではないくらいである。
「あった?」
光凛の様子を伺いながら心配そうに彼は尋ねる。
「あった!ありがとう」
「よかった」
そう言って彼は優しく微笑んだ。彼は光凛のひとつ上の先輩である和泉 司(いずみ つかさ)だ。彼は光凛の直属の先輩で、生徒時代から光凛をよく知るスタッフの1人でもある。

光凛は手にしたピンクゴールドのiPhoneを開き溜まっているLINEに目を通していく。この予備校は業務連絡にLINEを使用していたため膨大な量のLINEが1日に届く。そのどれもが重要事項であるため、光凛は勤務前に必ず確認する。LINEに目を通しながら、その日の勤務の想定をするのだ。ものすごい勢いで膨大な情報を頭に詰め込み、それらを勤務内でどうこなすか光凛なりに想定ができたところで、光凛はiPhoneを閉じてポケットにしまう。

スカートのシワを軽く伸ばして、光凛は左腕に視線を落とす。初めてのお給料で購入したFURLAの腕時計は15時56分を示していた。出勤時刻4分前だ。
「うん、ちょうど良いね」
 時刻を確認した光凛はネームカードを首にかけ鏡の前に立ちスーツの襟を直す。最後にスーツのポケットに入っているリップを取り出して小さな唇に乗せる。大学入学時に母親がプレゼントしてくれたそのリップを光凛は勤務時に必ず付けている。
「よし、完璧」
 リップを塗り終え、背筋を伸ばして鏡の前に立つ光凛の姿に、先程までの少女のようなあどけなさは消えていた。

 出勤準備を完璧に整えた光凛は扉の前に立ち止まり、いつものようにそっと自分に言い聞かせる。
「大丈夫、今日も頑張ろうね」

 その次の瞬間、光凛は大きく息を吸い込み勢い良く扉を開いて、今度もとても良く通る個性的なその声で
「勤務入ります!お願いします!」
 と、スタッフたちに挨拶して勤務に入った。



みなさん、こんにちは。
本編の投稿は2回目です。いかがでしたでしょうか?
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緊急事態宣言も延長されたり、嫌なニュースが続きますが、たとえ1人でもこの小説を読んで温かな気持ちになってくれることを願います。

これからもよろしくお願いします。

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