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何をどう伝えるのかということ

私はTwitterに初めて登録をしてからは10年以上経っていると思いますが、その間にTwitterのユーザーもどんどん増え、Twitterの社会的位置づけもだいぶ変わったと思います。

そういう変化の中で、自分もユーザーとして考え方もだんだん変わってきたし、自分とTwitterをはじめネットとのベストな距離感も、だんだん分かってきた気もします。

数年前までは私も、わりとセンセーショナルであり、かつこれは広く人に知ってもらった方がいいんじゃないかと思う、良心が動かされるような記事は、即座にリツイートしていた時もありました。

当時、それを見ていたある方に、「なんで信ぴょう性がよくわからなくて、自分に関係ないことをリツイートするの?」という趣旨のことを言われたんですね。

その時にリツイートした内容は、ある方が、自分の親戚が過労死をしたのに会社がそれを認めないことを世間に広く知ってほしいというブログ記事のリンクでした。

その方は、亡くなった方のスマホの記録などを読まれて記事を書かれたのですが、私はその内容を読んで、すごく素直に「これは広く知られるべきことではないのか」と思ってリツイートをしたんですね。

そして私に「なんでリツイートするの?」と言われた方にはさらに、「記事の内容が嘘だとは思わないけれど、実際自分が体験したわけではないし、もしそれが広まって逆にその会社が非難されて、その過労死の件に関わった人が自殺してしまったらどうするの?」ということを言われたと記憶しています。(3年前の話なので、記憶があいまいです。ニュアンスが違っていたら申し訳ないです。)

そう言われて初めて、私はそこまでは全然思い至らなかったなと感じました。

今もそうですが、Twitterの中には常にこういう問題提起はあふれていて、当時の私は自分が気になったことって、すすんでリツイートしていたんですね。

そういう私をずっと見ていたその方が、上記のようなことを言ってくださって、そこから何かをリツイートするときには、すごく考えるようになりました。

この指摘をしていただいたことは、今でもよかったと思っています。

たとえば、どこかで災害が起きたときに、「今テレビでは報道されていないけれど、この地区のこの場所に救援物資があります。是非拡散してください。」みたいなツイートを100%の良心からリツイートする人は軽く数万人以上いそうな気がするのですが、こういうたぐいのツイートが後に誤り(あるいはデマ)だったと判明するとか、そういったことって結構あったと思うんですよね。(いろいろな場面にあてはめて、同じようなことってたくさん起こっていると思います。「行方不明の家族を探しています。この人の情報を教えてください」→実はストーカー、とか。)

こういうようなツイートを見かけたときに、一旦立ち止まるようになれたのは、私のリツイートについて直接気になる点を言ってもらえたからだと思います。

この頃からやっと、基本的にリツイートをしたり何かの情報を広めたいと思う時は、その情報はかなりの確率で正しいだろうとか、内容がどうであれ誰かを不本意に傷つけたり迷惑をかけたりすることはないであろう、というところまで考えるようになりました。


ただ、考えるようにはなりましたが、最初の方に書いた、私が指摘されたリツイートの行為は100%間違っていたとも思ってはいないんですね。

リツイートをしないことが無難だし、新たに誰も傷つけることがないという点ではすごく正しいことだと思います。

だけどたとえば、私がもし何かどうか間違って無実の罪で訴えられることがあったとして、そのことを懇切丁寧にブログで説明をしてどうか拡散してほしいとお願いをしたときに(そんなことがあったらたぶんこうすると思います。)全然知らない人の、「全然知らない人だから、本当っぽいことを書いてあるけどちょっと拡散とかしたくないよね」という意見を見たら、そうだよねと思いながら、思いながらも思い切り絶望もすると思うんですよね。「そこをなんとか伝われば」と思いながら書いていると思うから。客観的証拠をどうやって書き言葉で伝えたらいいのだろうかと、たぶん人にも相談して考えて考えて考えて書いていると思うから。

見ていないことは何が真実かは分からないけど、そう言ってしまうと確信が持てることって半径3mくらいのことしかないわけで、それ以外のことで、なにか波紋が生まれそうな話題については、おおやけには触れず、ごく信頼できる人と語り合うくらいで自分の気持ちをおさめておけば、すくなくともオンラインで全然知らない人に指摘されたり、誰かを傷つけたりすることもないでしょう。

ここ数年は、自分もそう思ってこころにおさめてきたことはたくさんあって、たとえば自分が拡散してしまった情報について、あとから心配になったり、誰かにからまれれて嫌な思いをするということも、ほとんどなかったと思います。

一方で、自分が考えていること、誰かに伝えたいと思うことはたくさんあって、それをどういう形で表現したらいいのかということはすごく迷うようになりました。迷いながらいろいろなことを考えたり、実行したりしているのですが、「これだ」というものは未だよくわかりません。

でも最近は、迷ったときは「迷っている」と、わからないことは「どうわからないのか」と、書いたり話したりしたらいいのではないかということは思うようになりました。

わからないけれど、ここまでは考えたとか、その上でこう思っているとか、間違えていたら指摘を受け入れたいという姿勢でいることとかを、そのまま書けばいいのではないかと思いました。感じていることは毎日たくさんあるから。

人が感じていることを表現したいと思ったときには、さまざまな方法がありますよね。対話・文章・映像・絵・音楽など。

自分は人と直接話すことが一番好きだし、できたら常にしたいなと思うのだけれど、毎日、いや定期的にも難しいので、今は書くことで代用している感じです。

そう思ってまた、話したいことを書いていきたいなと思いました。

長くなったので、また。

いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。