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アラサー中卒ひきこもりニートが介護士になって結婚した話


はじめに

私は高校を中退(中卒)、ひきこもりを二回経験した後、介護士になりました。
介護老人保健施設に就職してから今で九年目です。

何があって中卒ひきこもりニートになったのか?そして何のお陰で介護士として働き出したのか?
この記事では自分の人生を振り返るためにも、今までの出来事を時系列で書いていきます。

できるだけ不幸自慢にならないように書きますが、もしそう見えたら申し訳ございません。

「そんな人生もあるのか」という興味本位で読む。「何故ひきこもりを脱したか?」という理由を知るために読む。
「自分(もしくは自分の子ども)はこうなりたくない」という予防のために読む。

どんな理由で読んで頂いても大歓迎です!読んで下さるだけでありがたいです。

ただ自分語りが多めになるので、苦手な方はここで読むのをストップして頂ければと思います。

まずはこれまでの人生の主な出来事を振り返ります。

小学校でいじめられる→中学校「視線を動かすだけでいじめられる」という恐怖に支配される→高校中退→一回目のひきこもり→十五歳からフリーター→二回目のひきこもり→職業訓練に通う→アラサーで介護士になる→通信制大学に通う(介護士をしながら)→結婚し、子どもができる

以上のことが人生の大きなイベントですが、そもそもは典型的な中流家庭に産まれました。特に虐待を受けたとかはなく、両親はしっかり育ててくれたと思っています。

幼少期で特筆すべきことは『とても怖がり』だったこと、母が出かける度に「お母さん死なないで」と泣きながら叫んでいたそうです。少し大きくなってからも死ぬのが怖くて、何も手につかない時期がありました。

①ウンコマンと呼ばれた小学生時代

小学五年生から数ヶ月間(一年未満)いじめられました。きっかけは友達とのケンカ。ケンカした友達からいじめが始まり、クラスに広がります。

その内容は基本的に不名誉なあだ名で呼ばれるというものです。実際のあだ名はもっと酷いのですが、書きたくないくらいイヤなので、ここでは仮に『ウンコマン』としますが、そう呼ばれ続けました。

殴られたりとか、お金を取られたりとかはありませんでしたが、ノートに「死ね」と書かれたり、「こいつに触ったら菌が感染る」的なバイ菌扱いも受けました。

私がリアクションをほぼ取らなかったからか、いじめの張本人に直接「ウンコマンと呼ぶのは止めてほしい」と伝えたからか分かりませんが、いじめは小学校六年生の終わり頃には無くなります。

無くなりはしましたが人間関係は元通りとはいかず、割りとぼっちな小学六年生を過ごしました。

その上、心の傷も負いました。特に女子からの扱いが酷かったので、しばらく同じ年齢くらいの女子には苦手意識を持つことになります。

同世代の女性と話せるようになるのは、そこから四年後。バイトをするようになってからです。

それも恐る恐る話しかけては、「話し方間違えたかも。あぁ駄目だ。」という自己嫌悪の連続でした。苦手意識が完全に無くなるには更に2年くらいの期間が必要でした。

文部科学省の調査(令和4年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果)によると、全国の小学校のうち90.1%がいじめを認知しており、これは「いじめはどの学校でもある」と言えるような結果です。

どこでもあるし、いじめている方は「大したことをしていない」と思うかもしれませんが、その大したことないはずの行為は、いじめられた側に年単位の心の傷を負わせます。中には一生傷が癒えない人もいるでしょう。

今いじめられている人に一つだけ言いたいことがあります。

それは、「あなたは悪くないし、限界になる前に逃げてほしい」ということです。耐えて耐えて、心身が壊れるくらいなら不登校になる方が良い。そう思います。

②黒板を見ることが怖い中学生時代

一時期いじめられた小学校を卒業した後は親の仕事の関係で転勤しました。

別の地方から関西への転勤だったこともあり方言をバカにされたりもしましたが、それも最初のうちだけでした。

間もなくクラスにも慣れ、陸上部に入ります。部活は楽しく大会で結果も出せましたし、彼女もできて正に順風満帆でした。

しかし、楽しい中学生時代も三年生の時に終わりを迎えます。それは部活を引退した後のことでした。

クラスメイトが友達の陰口を言っているのを聞いて、唐突に気付きます「人は人に悪意を向けるものだ」と。小学校の時にいじめられたにも関わらず、不思議とそれまで悪意の存在を意識していませんでした。

ひょっとしたら辛くて、いじめられた記憶を封印していたのかもしれません。

人の悪意に気づいた後は、それを意識し過ぎて「自分はいじめられるかもしれない」「視線を動かすとそれが理由でいじめられるかもしれない」という一種の強迫観念的な思考を抱いてしまいました。

実際はそんなわけないのですが、恐怖で視野が狭くなった中学生の私は被害妄想に苛まれます。それに過去にいじめられた経験が、いじめられる恐怖をより大きくしていました。

その恐怖は学校にいる時だけでなく、次第に寝る前や休みの日にも「〇〇したらいじめられるかも」「いじめられたらどうしよう」という恐怖に支配されるようになっていきます。

眼球を動かすだけで敵意を向けられる。そう思ってしまえば、中学校はあっという間に耐え難い苦痛の場所になります。

卒業までの登校日を書いたカレンダーを自作し、一日一日バツ印をつけて、歯を食いしばりながら通う日々でした。

実際は中学校でいじめられることは無かったので、完全に杞憂でした。

結果を知っている今では、中学校での自分の思考回路の歪さを俯瞰して見られますが、当時の自分からしたら目の前は真っ暗です。

たまに欠席しつつ何とか卒業したものの心はボロボロ。そんな心のまま入学した高校は中退してしまいます。

③不登校と高校中退

中学校を何とか卒業し、高校は行ったものの、一学期の途中で母に「辞めさせて下さい」と泣きながらお願いします。

当時は辞める理由を色々こじつけていましたが、その本質は『学校に通う』という行為そのものが苦痛で耐えられなくなったからです。

いじめられたわけでもなく、勉強についていけなくなったわけでもなく、ただ学校に行くのが辛いというのは、今考えても不思議なものです。

泣いて「将来のために通った方が良い」と言う母に、「将来のためよりも、このまま高校に通えば今の自分が壊れてしまう」と退学を懇願する息子。

結局は折衷案として休学することになりました。休学の前に担任の先生と母と私の三者面談が開かれます。

先生は退学を引き止め、高校を中退したものの再度学校に行った人の話をしてくれました。その人は退学した数年後に子どもが産まれ「子に恥じない父で居たい」と思い、定時制高校に通い出したそうです。

「いつか勉強しておけば良かったと思う日が来るよ」と言う先生。先生の話に少しだけ心を動かされましたが、結局休学を選びます。

手続き上はどうなったのか詳しくは分かりませんが、そこから学校に行くことは一度としてありませんでした。

そして、そのまま三学期の終わりに自主退学しました。

自分ではこの期間を『ひきこもり期間』だと思っていますが、世間の扱い的には『ひきこもり』よりも『不登校』だったのかもしれません。

休学してから三ヶ月ちょっとは無気力に過ごしていましたが、徐々に「何かしなくては」という焦りが出てくるようになります。焦りはひきこもり脱出の一歩目です。

親も何も言わず見守ってくれていたこともあり、自分の好きなようにひきこもり生活を送っていたため、エネルギーが充足したのでしょう。

「勉強なんかしなくても生きていける」と根拠のない自信を持ち、たかを括っていた私はバイトをしてお金を稼ぐことに決めました。

タウンワークで十五歳でも働けるバイトを探します。そして見つけたのが某ファーストフード店の募集。面接を受けるため、震える手で電話をかけます。

④十五歳でフリーターになる

ひきこもりから脱出しバイトをするために、ファーストフード店の面接に向かいました。面接で伝えた希望は二つ

❶夜型の生活に慣れていたため早くて昼間から働きたい
❷まずは短い時間からで働きたい

❷については、まずは四時間から勤務することを約束してくれましたが、❶については店長から「今早朝のバイトさんがおらんから、早朝入ってくれたら100%採用する」と言われたため、早朝に勤務することになります。

この時点で採用が決まり、私は「何があっても、最低でも三年間、本来なら高校に行ったはずの期間は働こう」と覚悟を決めました。

日中のお店はパートのおばちゃんばかりです。親子程に年齢の違うパートさん達は、時に優しく、時に厳しく教えてくれます。

日中の人以外にもバイト先は良い人が多く、常識もコミュニケーション能力もない私を育ててくれ、徐々に勤務時間が延びて八時間になり、勤務形態も夜勤までできるようになりました。

また、最初は厨房での採用だったのですが、接客もさせてもらえるようになり、数年経った頃にはバイトリーダーをさせてもらえました。

初めて接客する時は緊張で体が震え、お腹が痛くなったのを今でも思い出します。

バイトリーダーになった頃には店内の同世代のフリーター達と遊び仲間になり、夜な夜なボーリングやカラオケに行ったり、飲みに行ったりして過ごしました。あの時間は高校に行ってない私の青春時代です。

クレーム対応をしたり、変な人に絡まれたり、店長に怒られたり、皮膚の病気に悩まされたり、と楽しいことばかりではありませんでしたが、すごく良い経験をさせてもらえたと思っています。

ただここで大問題が発生します!それは、フリーター歴が十年近くになっていたことです。より正確に言うと、今後どうするか決めないまま居心地の良い実家暮らし&フリーター生活をしていたことです。

「じゃあ就職すれば良いじゃん」と思われるかもしれませんが、就職に対して異様な程の恐怖心があり、その覚悟が決められませんでした。

就職どころか、就職活動さえできませんでした。あれはおそらく、今の居心地の良さを捨てて新しく挑戦することへの恐怖だったのでしょう。

「このままだと就職できない」と危機感を持った私は、思い切って半分だけ頑張ることにしました。

半分とは、居心地の良さを捨てることと挑戦すること、現状の自分では両方はできないのなら、どちらか一方つまり半分だけやろう。といった思考です。

そして居心地の良さを捨てることを決めバイトを辞めました。先のことは全く決まっていません。こうやって二度目のひきこもり生活が始まりました。

⑤インターホンの音に怯えたひきこもり

二度目のひきこもり期間で一番覚えていることは、日常に変化が無さすぎて、今が現実か夢か分からなくなったことです。

社会に参加することこそが、生きることだと私の場合は思っていたので、参加するために働きたいと思っていました。でも人が、悪意が怖くて動けません。

ひきもっていた時は悪い情報ばかり集めて、ネガティブをどんどん拗らせていき、増々動けなくなっていきました。

一時期はインターホンの音に怯えたり、一緒に済んでいる親に怯えたりするほどでした。繰り返しになりますが親の名誉のために言うと、生まれてから一度も虐待を受けていません。

少なくても私はそう思っていますし、今でも感謝しています。それでも親に怯えるくらいおかしい精神状態でした。

収入はなく親に生活費まで払ってもらいつつ、自分の貯金も切り崩しながらの生活です。今までほとんど無駄遣いをしなかったお陰で七桁溜まっていた貯金も、あっという間に残り少なくなってしまいます。

そんな変わり映えのしない最悪な日々の中でも、外に出る機会はありました。それがバイト時代の仲間が開催する飲み会です。

親に依存して生活しているのに、娯楽のための飲み会に参加して良いのか?そんな悩みもありましたが、ひきこもりを抜け出すきっかけはこの飲み会でした。

具体的に言い過ぎると身バレのリスクが高まるので、少しぼやかしますが、飲み会の席で仲の良かった一人のバイト仲間の現状を知りショックを受け、そこから奮起しました。

「あんなに幸せそうだったあの人が、そんなに不幸になるなんて、人生何があるか分からない、自分も今やらなきゃ駄目だ!」そう思い就活を開始します。

この飲み会のタイミングも丁度良かったです。飲み会があったのがひきこもってから約一年経った頃で、溜めに溜め込んだネガティブな感情を爆発させてくれました。

そこからハローワークで仕事探しをして、その中で職業訓練の一種である求職者支援訓練をすすめられ、介護の資格(実務者研修)を取れる職業訓練校に行くことにします。

介護を選んだ理由は「自分が苦手なコミュニケーションが求められるから、自分が変われるかもしれない」という期待からです。

通う期間は半年で短めとはいえ職業訓練『校』…苦手だった学校に通うことになりました。

⑥介護の学校と高卒認定試験

介護の資格実務者研修を取るための職業訓練校に行くことになりましたが『学校』というものにトラウマがあったので、最初は行くのが憂鬱でした。

ただ、今までの学校と違う点は、通う期間が短いことに加え、生徒が老若男女様々であることです。「今回は大丈夫」と何回も自分に言い聞かせて通学しました。

そして久し振りの知らない人とのコミュニケーションに、私は一つルールを設けます。それは「苦手なタイプだと思っても、その人のことが分かるまで苦手だと決めつけない」ことです。

ルールを設けた理由は、苦手そうな人とのコミュニケーションを避ければ、ほとんどの人と喋りたくなくなると思ったからです。職業訓練校を機会に視野を広げようと思いました。

入校早々、後ろの席に座っている女の人が話しかけてきます。その人はプライドが高そうで、こちらにマウントを取ってくるような話し方をしていました。

すぐ「この人苦手かも」と感じました。しかし、グッとこらえて話しを聞きます。

そうやっていると不思議なことに少しずつウマが合っていき、十年くらい経った今でも付き合いのある親友になれました。

何個か派閥みたいなものがあり、私はその親友と同じ派閥で私以外はほぼ女性、しかも大半を40代以上の方が占めています。

その環境は一度目のひきこもり後と同じく、バイト先でパートのおばちゃん達にお世話になったような感じで、社会復帰にうってつけでした。 

授業自体もそこまで難しいことはなく、卒業の見込みはすぐに立ちました。また、この時期にもう一つ資格取得を目指します。

それは高卒認定試験、高校を卒業した人と同じくらいの学力があると証明するための資格です。ユーキャンの教材で勉強し、試験に臨みました。

結果は…合格。最終学歴としては高校中退のままですが、一つ自信が付きました。

職業訓練校の卒業も決まり、次は就活です。着慣れないスーツを着て、緊張で震えながら面接に臨みました。

学歴は中卒(高校中退)、ひきこもり歴があるという履歴書に不安を感じたものの、結果は一社目(一施設目)で採用。

いわゆる老人ホームの1つである、介護老人保健施設に介護士として採用されました。介護系の資格を取得したこと、職業訓練校からの紹介があったことは、採用のための強い追い風だったと思います。

⑦元ひきこもりでも八年以上仕事が続く理由

介護士として仕事を始めて、まず気付いたことはコミュニケーションが苦手なはずの自分でも、そこそこコミュニケーションが取れることでした。

それは今までのコミュニケーションと大きく違う二つのポイントがあるからです。

一つ目が仕事でコミュニケーションを取っていること。仕事ということはつまり、話すことは業務で求められる技術の一つである。ということです。

どのように話を聞いたら良いか?どのように答えたら良いか?何を目的に話すのか?これらがある程度マニュアル化しています。

介護士のコミュニケーションとは、先輩を見たり、先輩から教わったりして学べる技術でした。

二つ目が話す相手が高齢者であること。年長者に教えてもらう立場、話してもらう立場として、スタンスが明確なので、もっぱら聞き役に徹することができます。

それに亀の甲より年の功ということわざがあるように、若者に話したら「え?」と戸惑われそうな内容の話でも、高齢者の方々は話を広げて下さる方も多いです。

他にも元ひきこもりの自分に合っていた部分があります。

利用者様が生活する介護施設に勤務していたため、勤務形態が早番から夜勤まで24時間あったことです。夜型人間を通り越して不規則な生活を送っていた自分には、この勤務形態が丁度良かったです。

また、ひきこもりであること、高校中退であることを履歴書に書きましたが、自ら進んで他の職員に話すことは基本的にありませんでした。

ひょっとしたら陰では言われてるのかもしれません、ただ直接、経歴や学歴を揶揄されたり、馬鹿にされたことは一度もありません。今まで三つの介護施設で働いてきて一度もです。

これらのお陰か、職員が大量に辞めたり、暴力的な利用者様がおられたり、職場を異動になったり、上司と反りが合わなかったりして「辞めようかな」と思った瞬間は沢山ありましたが、結果的に長く続けることができました。

仕事に余裕が出てきてからは「勉強がしたい」「大学卒業の資格が欲しい」と思い立ち、通信制大学にも入学します。

そして介護士を長く続けている内に、フロアのリーダーや介護部門の責任者にも任命して頂けました。

詳しい話をすると大分長くなるので今回は割愛しますが、すごく良い経験になりました。

介護の世界に八年以上お世話になっているので、個人的にはひきこもりの人や中卒の人に介護士をおすすめしたいです。

ただ『資格も経験も要らないけど向き不向きの大きい業界』なので、「絶対におすすめします!」というよりは、「選択肢に入れて下さい!」くらいのおすすめ度ですが…

⑧ハラスメントで退職する

結婚は生涯しないと昔は思っていました。介護士になって数年が経っても、私は過去に何回も挫折した人間であり、社会の一部の人からは見下される経歴と学歴であり、自分に守れるものなんか何もない。という引け目があったからです。

お恥ずかしい話なのですが、本当は結婚したいけど自信がないから自分の心を偽り、周囲にも結婚に興味がないと言っていました。

しかし、介護士として経験を重ねていくうちに、その考えは変わっていきます。徐々に徐々に「やってみなきゃ分からない」というように少し前向きな考え方になっていったのです。

奥さんと出会ったのは職場でした。介護士ではないのですが介護老人保健施設勤務の人です。奥さんは自分の経歴を聞いても見下したりせず、受け入れてくれました。

それもあってか、出会ってから割りと早めに結婚することになったのですが、「中卒でひきこもりをしていた自分を奥さんの家族はどう思うんだろう?」という懸念がありました。

そういう懸念を取り除くためにも、奥さんが事前に私の経歴を義両親へ話してくれました。

奥さんから、お義父さんが「彼は苦労したんだね。」と言ってくれた。と聞いた時は心の底から嬉しかったです。義両親からも認められ結婚。

結婚から約一年後に子どもが産まれました。出産に立ち会わせてもらい、生命の誕生に感動し、父親としての覚悟を持つきっかけとなりました。

育休を取ろうとしましたが、上司からの「育休は2週間までしか認めない」「育休を長い期間取りたいと言うからには、ちゃんと辞める覚悟を持っているのか?」のようなハラスメント(パワハラ&パタハラ)に遭い断念。労働時間が少ない所を探して転職を決意します。

職業訓練校を卒業してからずっと同じ会社(法人)で働いていたため、久し振りの就職活動です。

ケンカのような感じで辞めることが決まり、有休も使わせてもらえなかったので、退職してからの就職活動になりました。

有休に関しては然るべきところに訴えれば、取得できる可能性はあったと思います。

ただ、奥さんがまだ在籍中(産休中)だったため、奥さんにとばっちりが行くことが怖かったこと。そして、有休取得に時間をかけるくらいなら早く転職をしたかったことから、こちらもそれ以上は強く出ませんでした。

実に八年以上振りの『無所属』に「このままひきこもりニートに逆戻りするかもしれない。」そんな不安が頭をよぎります。

じっとしていると不安で堪らなくなるので、早々に求職活動を始めました。経歴は偽らず、履歴書にそのまま書きます。四社受けましたが三社が採用の意志を示してくれました。

介護業界は資格があれば採用してくれる所も多く、介護士の経歴があればより採用率が高くなるんだと実感しました。

三社の中から選び、今は残業がほとんどない介護施設で働けています。仕事もプライベートと色々と慣れないこともありますが何とかやっています。

さいごに

三十年以上、どちらかと言うと四十年に近い出来事を振り返って来ました。

いじめ、高校中退、ひきこもり、ニート、先の見えないフリーター、そしてハラスメントからの退職。いつの時点でも共通することは「当時は絶望したような事でも、今になって考えると希望はあった」という部分です。

色々な所でしばしば言われることですが、もうどうしようもないと感じても、生きている限りは大概何とかなります。

エネルギーが溜まるまで休み、機をうかがうのも良いでしょう。自分が楽しいことだけしていたら、いつの間にか困難に打ち勝っていた。ということもあるでしょう。

誰かに助けを求めても良いし、全力で逃走しても良いと思います。

自分の選択にとやかく言う権利があるのは、本当に自分のことを思ってくれている人だけです。その人たちでも口を挟むことしか許されません。自分の人生に何かあった時、責任を取ることができるのは自分だけです。

もちろん多くの人に助けて頂き、感謝してもしきれない程ですが、今まで自分の人生は自分で選択してきたと思っています。

今後も、困難に直面した時は泣き顔で必死にもがき、後で困難を振り返って「良い経験だったな」というような生き方、『喉元過ぎれば熱さ忘れる』的な生き方をしていく所存です。良い意味で使われることわざではありませんが…

四年前に入学した通信制大学は今年(2024年)四月に卒業できました。家族で過ごす時間も比較的取れています。介護士としてはこのまま行けば十年目に突入するでしょう。

中卒でひきこもりでニートだった私は、今は大卒でパパで介護士になりました。自分では、わりとユニークな自分の人生を気に入っています。

生きるのがしんどい時もたまにありますが、多くの人に助けられ何とかやっています。

この記事を見て下さった方ありがとうございました。中卒はこうするべきだ!ひきこもりはこうするべきだ!と言う書き方もしないよう気をつけたつもりですが、そう見えたかもしれません。

●私はこんな辛い人生を歩んできた悲劇の主人公なんです
●私は様々な困難を乗り越えて来たからお手本にしなさい

世の中には両方のタイプの人がいて良いと思います。ただ、自分がそのタイプになるのはイヤだと思っているのに、似通ってしまう部分があり日々反省です。

正直に言うと心の中には、同情をしてもらうのではなく、また価値観を押し付けるのではなく、自分なりに知識や経験を提供し結果的に誰かを救える人になりたいという憧れがあります。

いつか自分の体験を良い感じにまとめて本を出したいなんて夢もあります。…まあ夢の話は置いておいて、憧れた人になるためにも、これからも発信していきます!!

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