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15年前の、キンモクセイの魔法が今も解けない。

インタビューとか要らないんじゃないかと思うミュージシャンがいる。
その人が話し好き・語りたがり、または作品がコンセプチュアルな場合等を除いて。

言葉にしたくなかったり、できなかったり。『音楽』作品として伝えたいから音楽にしているのであって、それをまた言葉で説明するっていうのは、根本的になんかどっか違うんじゃないのか。
当時、ミュージシャンへのインタビューを仕事としている身ながらそんなことを思い、仕事として重ねていくからこそ強く思うようになっていた。
『音楽』を『音楽』として大切にしている誠実なミュージシャンにほど、そう強く感じていた。

イイ人だった!覚えててくれた!

いわゆるキャンペーンとかプロモーションとかは、作品を広く宣伝するためには必要だとは思う。ミュージシャン本人が稼働して、媒体の人と会い、交流した結果、媒体の人が好印象を持ち、各メディアにて推し始めることは多々ある。

キャンペーンとかプロモーションって、音楽とともに(もしくはそれ以上に?)人間的にファンになってもらえればしめたもの、とゆーか。
実際、曲はあんまりピンとこないんだよねーと言っていたミュージシャンのコンベンションに行った仕事仲間が、喋ったらすっごいイイ人だった!!とか、前ちょっと挨拶しただけだったのに覚えててくれた!!とかゆって、強力に自分の媒体で取り上げ始めることはよくあった。

それと相反して、ミュージシャン本人に会ったとき、愛想がないとか怖いカンジだったとか邪険にされたとか、そういう印象を抱いて帰ってくることになると、どんなに曲自体を好きであっても推す気持ちは少なくなるようだ。おいー!そこでこそ、『音楽』への愛の真価が試されるんだろうに!! まあ、でも、わかるっちゃわかる。
けれど怖いことに、その印象のせいでその人の耳には今後、曲たちの輝きも失われて聞こえてしまうケースがあるらしい。まさに、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い現象。うーん・・・。

わたしはこれまでにも書いているように、音楽を「手段」ではなく「目的」としているミュージシャンがすきだ。愛想なんかなくていい。饒舌なんかじゃなくていい。「イイ人」でなくて全然いい。

”彼らにとって音楽は、何かの「手段」ではなかった。彼らにとって音楽は、ただただ純粋な「目的」。
世間には、音楽を「手段」として用いているアーティストも多々存在するが(想いを主張したいだとか単純に有名になりたいだとか)、だからこそ。
とても嬉しかった。「音楽」を愛する人なら誰だってわかる。その音楽が、手段なのか目的なのかなんて。”


音楽の中に嘘偽りのないものがギュッと丸ごと詰め込んであって、そこから放たれたり溢れたり、はみ出てきたり滲んできたり、そういったものを感じるだけで充分だ。だから、すきなミュージシャンのインタビューというものは、なにしろ因果だ。

足音までかっこいい、ロックな強者のインタビューで。

当時は音楽業界の隆盛を受け、地方の一介の編集部ながら、ミッシェルとかベンジーとかに代表されるような、どう考えてもインタビューとか嫌いでしょ!!てかもはやプロモーションとか要らないでしょ!!といったロックな強者(つわもの)も訪れた。
恐怖だった。もちろんロックな強者はだいすきだ。かっこいい。かっこつけようなんて微塵も思ってないのがかっこいい。無頓着なのがかっこいい。会いたい。聞きたい。伝えたい。でもインタビューは怖い。

そんな、言葉や説明を必要としない、音楽への誠実を極める、あるロックな強者への初めてのプロモーション、初めてのインタビュー。ド緊張。部屋に近づいてくる足音が聞こえる。足音からしてかっこいい。てか、足音までかっこいいって何事。なんかどうでもよくなってきたな。体裁とか、どうでもよくなってきたな。扉が開いた瞬間わたしはそう思い、最初にこう告げた。

「して欲しいのは、説明ではないんです」

アルバムを聴けば、もうそこに純度高く込められたものは感じられる。説明は蛇足だ。ついでにロックな強者は感覚の人だ。そもそも説明はあまり上手くない(それでいいしそれがいい)。だから、もう、説明をしようとするのではなく、宣伝をしようとするのではなく、聞かれて自然に思い浮かんだこと、話していてふとよぎったこと、アルバムや音楽に関係があってもなくてもなんでもいいから、思ったことをそのまま口にしてくれれば充分です。
そんなようなことを、脇汗をかきながら伝えた記憶がある。

すると、愛想のカケラもない表情をしていたそのロックな強者は、ふふと笑ってこう言ったのだ。
「わかった。思いついたこと何でも言う。でもそう言われたら、逆に説明したくなる 笑」

パアァァァ・・・!だ。ちびまる子ちゃんの、まさにパアァァァ・・・!!だったに違いない。そのときのわたしの表情は。
伝わった。嬉しかった。ロックな強者が、やわらかい笑顔を見せる。よかった。はぁぁ、よかった。

ロックな強者は一気にリラックスした姿勢になり、「じゃあさ、外でやろうよ。外、気持ちいいし」と言う。さすがロックだ。季節は秋。実に心地よい気候の昼下がり。レコーダーを携えて、外へ出て、芝生の上にてきとうに座る。(余談だが、人気絶頂時のブリグリ・トミーも、ソニー支社のふかふかソファの会議室で取材中、床に座りたいと言い出し、絨毯の上に三角座りして話したことがある。そういう人、なんかすき。)

キンモクセイの匂いを嗅ぐたび、思い出す。

目の前をゆったり流れる川、色づく緑、木漏れ日、地面の湿度、草の上を歩くアリ、吹き抜けていく風。その気持ちよさ。
アルバムの直接的な話でなくとも、すべてが音楽性や人間性に紐づいていく。コンセプトとか曲の構成とか技術とか歌詞の意味とか、そういったものは中央の大きな音楽雑誌におまかせして。今は開放された心身から紡がれるものを、拾うだけでいいなと思えるひととき。そんなロックな強者はチャーミングな魅力全開で、話は案の定よく飛躍した。
「カレー好きなんだけど、カレーおいしいとこって、どこ?」。「なんか最近、面白い名前のバンド多いよね」。「じゃあ、突然クイズです。カナダの首都はどこでしょう?」…。
思わずバンクーバーと答えると、「ブブー!オタワです!」と得意げ。「じゃあもう一問」。ロックな強者は嬉々として続ける。
「いま漂ってる、この匂いの花はなんでしょう?」。

わたしは大人になるまでを、主に北国で過ごした。北国には、秋に香る花の代表格・キンモクセイの木はないらしい。それすら知らず、よってキンモクセイ自体を知る機会もなく、北国を離れたわたしにとって、いつも秋になるとどこからともなく強く漂ってくるその甘ったるい匂いは、「トイレの芳香剤みたいなニオイ」でしかなかった。すきになれないニオイだった。

すきになれないニオイに、関心はなかった。このニオイは花だったのかと、その質問で知ったほどだ。「あー!このニオイ、知らないんです。そういえば!」。思わずそう答えると、ロックな強者は驚きながら教えてくれた。これは、キンモクセイだと。

これが。かの。ちょっとした感銘だった。言葉としては耳にしたことのある「キンモクセイ」という名称と、その香りが、今この瞬間にがっちり・くっきりひとつになった。なんだかキンモクセイと聞くと、今まで金平糖みたいなものを思い描いていた(きっと金木犀の字面のせい)。キンモクセイが、こんなふうに香る秋の植物であることを、わたしはそのときに鮮烈に知ったのだ。(大げさにいうと、ちょっと小規模なヘレン・ケラーの「ウォーター!!」バリに)

その驚きを若干コーフンしながら伝えると、ロックな強者は「そーなんだ、いま知ったんだ」と笑ってサラッとこう言った。

「じゃあきっと、これからキンモクセイの匂い嗅ぐたび、俺のこと思い出すよ」。

2021年。東京オリンピックが終わり、コロナにいまだ翻弄される中、今年も変わらず秋は来る。ご近所に、そこかしこに、キンモクセイがあったことに、その匂いで気づかされる。

かくして。超カッコつけまくった兄ちゃんが、超カッコつけて口にした、とっておきの言葉ならいざ知らず。ピュアを極めるロックな強者が、何の気なしに、無頓着に、さらりと口にした一言で、わたしは魔法にかけられた。

その翌年、いつのまにか来ていた秋に、キンモクセイの香りにハッとした。思い出す。忘れない。その翌年も、その翌年も。今も。

マスクをしていても濃厚に届くその季節の香りは、コロナ禍の今に至っては安堵感すらある。匂いと結びついた思い出、その強さに想いを馳せる。
そして、誠実な音楽たち、誠実なミュージシャンたちに想いを馳せる。キンモクセイの魔法は、今も解けない。

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