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ふしぎのドミコ。その出会い。こんなのおかしくない?

はじめてのドミコのライブは2019年4月、リキッドルーム。SOLD OUTで、へーと思った。もうそんな人気なのかと。
ほとんど音源しか知らず、音楽だけに惹かれてここに来た。

この日、個人的に特筆すべきは、ライブ中盤にやっとの、最初のMC。
MCないまま終わっても全く違和感なかったので(むしろその方が好み)、あ、しゃべるんだ、と意外に思っていたら。

「恵比寿っ・・・ですか、ここは」

笑った。なんだ、その脱力感。聞いてどうする!

だって、SOLD OUT・リキッド・ワンマン・セミファイナル!のライブだ。「恵比寿~!イェーイ!!」とかなんとか言ったりするのかと思いきや。

その一言を発しただけで、それを投げっぱなしにして、彼らはまたすぐ音を出しにかかった。いい。めちゃくちゃタイプ。その愛想のなさ!

ライブ頭からうすうす思ってはいたが。この日、初めてドミコのライブを観て、この一言ではっきり分かった。

彼らが「音楽のみ」に、実に「誠実」な、稀有なバンドであることが。


音楽を手段にしているバンドと、音楽が目的であるバンドの違い。

彼らにとって音楽は、何かの「手段」ではなかった。彼らにとって音楽は、ただただ純粋な「目的」。

世間には、音楽を「手段」として用いているアーティストも多々存在するが(想いを主張したいだとか単純に有名になりたいだとか)、だからこそ。

とても嬉しかった。「音楽」を愛する人なら誰だってわかる。その音楽が、手段なのか目的なのかなんて。

この日はそれっきりまともなMCはなく、ただただ沸き立ち渦巻く音の海。たった2人だけで繰り出す、分厚く変幻自在な音に飲み込まれる心地よさ。そこに、余計な愛想が一切ないキモチよさ。

思い返せば「恵比寿・・・ですか、ここは」で、ドミコという存在にスコンと恋に落ちた気がする。昔からそうだ。たった一言だ。ささいなきっかけだ。高校のときは、授業中の教室にふわふわと漂い入ってきた綿毛を、誰も気にも留めないソレを、ヤンキッシュだった寡黙な男子がふと見やり「・・・あ~、筋斗雲・・」とひとりつぶやいているのを耳にして「!!!」と衝撃を受けた。その衝撃はそのまま恋心となってしまった。いわゆるギャップ萌えもあるのだろうが、ひとり授業中にそうつぶやいてしまう、そう形容してしまう、その感性がたまらない。

脱線した。

そう、仮にドミコが、おしゃべり上手の、煽りまくりの、地名やら会場名やらをお約束に叫びまくりのソレだったら、次にライブへ足を運ぶことはなかったように思う。


余分な愛想もなければ、余分なメンバーもいなかった。

ドミコという存在を知ったのは、たまたま流れていたライブ映像にて。

それは、耳から「侵入」という言葉がぴったりくる感じの、キャッチーなのに得体の知れない、ザワザワする音だった。瞬間、脳の壁にべったりと貼り付くようなそのリフ。声。メロディ。音塊。一瞬で手が止まった。すぐにクレジットをチェックした。ドミコ「こんなのおかしくない?」。いいな、バンド名も曲名も。カッコつけず奇をてらわず。意味を持たされることから逃走してる感じ。好みだ。でもその時点では、その程度だった。

そんな軽い「いいな」の上を、彼らはこの日、思いがけない角度で飛び越えていった。

会場に入ると、ドラムセットはボーカルマイクと横に並列で配され、客席ではなくボーカルの方を向いていた。だから、客から見ると真横になっているのだ。なんだこのセッティング。こんなの見たことない。

そしてステージに現れたのは2人だけだった。え、ライブはサポート入れてやるんじゃないの? きっと、誰もがそう思う2ピースという編成と、それに似つかわしくない音塊にして。ドミコのライブに、サポートメンバーというものはいなかった。この2人だけで音源と同じ、いやそれ以上の音の渦を、そこに豪胆に放ってきたから驚愕した。余分な愛想もなければ、余分なメンバーもいなかった。

ドミコのライブを2人で可能にしているのは、Vo&G.さかしたの足元に並べられたエフェクター類。ライブの流れを止めることなく、歌や演奏のそのさなかに、必要な音を鳴らして録って重ねて止めてと、足元ひとつで絶対のタイミングで操っている驚異のワザって、もはや神業にしか思えない。人数に頼らず、音はめちゃくちゃがっつりバンドサウンド。こんなかたちで放たれる、こんな絶品のバウンドサウンドってものがあるのかと。これまでの概念が、見事に崩壊していく快感。加速していくドキドキとワクワク。

ある意味、職人的な音の構築にして、ドラムとたった2人だけの最小バンドにして、こんなにも生々しくダイナミズムに溢れて放たれるなんてどういうこと。

我を忘れて没頭したりすることもあるだろうに、いつ何をどのタイミングで録ってとか、止めてとか、わずらわしくなったりしないんだろうか。ズレたり忘れたりしないんだろうか。そこに合わせるドラムも、毎回高い技術を要求されているはずだ。フツーのバンドでは求められない、えぐい技術を。

それとも彼らはやっぱり、常にどこか冷静なんだろうか。音はこんなにも熱いのに、佇まいには捉えどころのない飄々とした風情が漂うのは、だからなんだろうか。

例えばさかしたの目の奥の奥や、脳内のほんの隅っこは、どこか徹底して静かに冷えている感じもしてならない。そんなバランスもまた、ドミコの魅力を成す大切な部分という気もするが。

アンファン・テリブル感がすごい。

そんなこんなで、「こんなのはじめて」なドミコのライブ。2人だけのステージで音源以上のナマなんて浴びせられて、ハマるなというほうが無理な話。

サウンド面はもちろんのこと、さかしたの歌声の魅力も果てしなく大きく。ごくたまに発する話し声はモソモソして小さく聞き取りにくいのに、歌となるとねるねるねるねのような粘着感が喉の奥から堂々と不敵に噴いて、突き通って、底なしの渦にとりこんでゆく。ダルそうでふてぶてしいのにポップだし、ロックだし、エロくもあるし、リリカルだったりもするし。もはや、彼のノドから出るすべての音が魅力と言いたい。なんとも色っぽいやら頼もしいやらな声帯だ。

Dr.長谷川の、腕や手首ではなく「肩」で叩くような渾身のドラムもいい。かなりいい。全力という言葉が一目でそこに見えるかのドラムプレイは、思わず視線を奪われる。

過去のインタビューによると、さかしたから「1回のライブに4日分の体力使って」と頼まれているそうだ。笑える。でも、本当に4日分くらいの体力を大マジメに使っている感がありありと、くっきりとわかる。けれど、小柄で寡黙でプロモーションの類にも姿を見せないせいか「ライブのときだけ現れる妖精」なんて言われているところがまたハマっていて笑える。

そう、音はすごいのに、それを放つ本人たちは小柄で淡々として飄々として。

要は、無駄な力みがない。音楽を邪魔する自意識がない。だから、そういった人特有の純粋さが、時にチャーミングに、時にユーモラスに映ったりする。ものごつい音を放ってくるのに、最高にクールだなと思わせるのに、冒頭のMC然り、なんかどこかスンとした可笑しみがそばにいる感じも絶妙で。

好きな音楽を好きなようにつくっていったら、こんなんなっちゃいました、みたいな。そんな感じで世界脅威の爆弾をつくってしまった子どもの話、どこかにあったような。それによく似たアンファン・テリブル感を、ドミコに感じて止まないのだ。(30歳は過ぎてるが2人だが)

ちなみに、作品を重ねるごとに、ちょっとマッチョとゆーか筋肉質とゆーか屈強とゆーか、様子が変わってきてる部分もあるようだが。いつまでも子どもではない。


ああ、願わくば。
上手最前で、さかしたの足元の神がかり的なエフェクターさばきをつぶさに見ながらライブを堪能したい。もしくは下手前方で、ドミコのこのセットだからこそ叶う「ドラマーを背後から見る」という贅沢な視点で、長谷川の技巧的パワードラムを足元まで露わに堪能したい。

そういえばこの日はアンコールで出てきた際、長谷川がボソッと、今日が自分の誕生日なのだと口にしてにっこり。ほほえましい。しかし相方の誕生日なぞ知らないさかしたに、きっと嘘、とか言われてしまうという。その淡々としたやりとりもジワジワ可笑しい。

そんな2人が、ときにめちゃくちゃアイコンタクトを取りながら、ドカンとした音塊を投げつけてくる、あのスリリングな感じもたまらなくいい。 

一般的な形態に縛られることなく、2人ということを売りにするでもこだわるでもなく。今この2人でできることを、結果、2人だからこそのインパクトと可能性で、2人じゃないとできないバランスで見事に放つ。 いわゆる "フツー" を軽く飛び越えて、独自の地平という自覚も気負いもないまま、彼らの音が向かっていくその先を楽しみに見たい。



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