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親になる

我が子ちゃんが生まれて、8日間の入院を経て現在実家で子育て&静養中な日々です。noteを更新する暇なく(いや、あったんだけど)気づけば3週間。マタニティブルーズも特に感じずやってこれたのは、ひとりじゃなかったからだとヒシヒシと感じてる。家事はもちろんのこと、育児も手伝ってもらえる環境はやはりありがたいもんです。
育児と言っても、沐浴前後の着替えを手伝ってもらったり、ぐずった時にちょっとの間抱っこしてもらったり、安心して目を離してお風呂に入れたり・・・とほんのちょっとのことでも、大人がいるといないとでは大違い!“子育てに人の手は多いに越したことはない”、とはこのことだと早速実感している。


我が子ちゃんが誕生してからたったの1ヶ月、このたった1ヶ月の間に感じたこと、わかったこと。それは、子供を産んだとて親の実感なんてすぐには湧いてこないということ

これまで自分の性格で嫌なところを感じた時、自分の人生(生活)に対して不満・不安を感じていた時、心のどこかで「結婚したら」、「子供を産んだら」、“変わる”と思っていた。幸せになれると思っていたし、実際今のところそのとおりだったのだけど、自分自身が変わるかどうか、というのは別問題のようで。よく映像で見た出産シーン、赤子の産声を聞いて母親は感動の涙を流す、というあの瞬間に、母親スイッチが入ってみんな聖母マリアのようなできた人間になるのかと思っていた。私も相当安直だ(笑)
実際、帝王切開でも産んで赤子の産声を聞いた瞬間は泣いたし、術後なかなか赤ちゃんに会いにいけない私の病室に、看護師さんが赤ちゃんを連れてきてくれた時は嬉しくて泣いたんだけど、私は私のままだった。

せっかちなところも、妙なこだわりがあるところも、他人の許せないところも、全部残っている。シシガミ様は傷は消しても、呪いは消してくれなかったらしい(突然のもののけ姫が出ちゃうのは、この間の金ローのせい・・・。)
実家に来て、実親、祖母に対する自分の態度は何も変わってない。“親になって親のありがたみがわかる”というが、それもきっとこれからだろう、と信じたい。もっと大人になって、もっと素直になって接することができるかと思ったけど、全くそんなことはなかった。

産んだ瞬間にガラッと変わるものではない、という至極当然のことに気づいた。

親になった実感がわかないのは、相手にしている我が子がまだ人間というよりも動物を世話している感覚に近いからなのかな、と腕に抱きながら思ったりする。自分が産む前から「自分はこの子にとってどういう親でありたいか」を考えて、そしてこれからも考え続けるんだろうな。

本当にたまたま、平日の昼間の番組で武田鉄矢が子育てについて話していたのを見て、不覚にも泣きそうになった言葉があった。それは、『子育てというのは失敗するためにある』ということ。親はみんな自分の理想や、こうなって欲しいという期待を多少なりとももって子を育てるけど、もし自分の期待通りの人生を子供が歩むことが成功なのだとしたら、成功したらろくな人間にならない、と。子供とは親の期待を裏切ってこそ、だと。だからその意味で、失敗していい、という武田鉄矢の言葉はぐっときた。それに彼自身の母親とのエピソードを交えて、『99%の人がそれは無理、ということを背中を押してやれる、その1%になれるのが親なんです』という言葉も、心に突き刺さった。「お前にその覚悟はあるか?」と問われてるような気がした。

こんな私が、とりあえず一つだけ心に留めておきたい指針が、「自分が罪悪感を感じるようなことはしない」ということ。本当はもっとできた人間になりたいと思うから、言語化できてない色んな理想はたくさんある。というか、罪悪感を感じない行動をいつもとれるわけではないから、これだってハードルは高い。この子にとって、というよりも私自身が納得のいくように生きたいからなんだけど。これから少しずつ良い方に自分が変わっていけたらいいなぁ、と思う。


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