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カフェ・ミラージュで心を映して(新大久保のための下書き)

目を閉じて、街ゆく人々の嘆きだけを抽出していたい。そうすればもう自分だけの苦しみだけじゃなくなる。この苦しみが首都の夜空の見えない星に生まれかわって、きっと行き来を重ねていくうちに、星の数は山となり目の前にある宇宙をも照らすだろう。

確率や割合といった幻だけで味わっていた苦しみの予感が露わになる。表情も思いつかないくらいに呆然とする。言葉にできるのは呼吸の早さ。十年ものの貯金箱でずっと眠っていた底の十円玉みたいな気分で現実を覗くとゴシップのそのまたゴシップのそのまたゴシップ。乳粥みたいにそいつをがっつく自分がいる。

そんな風にして午前1時のカプチーノをじりじりと飲んでいたホット・バターは目の前のゴシップ・ニュースのテレビから目を離した。同時にカフェ・ミラージュのオーナーがテレビのスイッチを切った。

新手の取引相手――彼はイスラム教徒を自称し、普段は新宿西口で違法ケバブを売っていると自称していた――がカフェ・ミラージュのドアを鳴らしたからだった。
オーナーは今度こそ閉店準備にありつけるといった軽蔑の表情を二人に投げかけつつ、いつものように地下の入口のシャッターを閉める作業に取りかかった。

ホット・バターは悪心めいたゴシップから受けた傷をはね返す勢いで彼の丁寧なあいさつも他所に、取引についてだけを、端的に説明しはじめた。
彼はホット・バターの対面に急いで座った。店内の暗さもいじらしく、どこか二人を急かしているようだった。午前1時10分を回ろうとしていた。

「はい、これが例のブツよ。多少重さを感じるかもしれないけど、厳重な密閉のせいよ。シュールストレミングっていう缶詰知ってる?くさやとか納豆みたいに、独特の臭いのある食べ物なんだけど、ムニアのもそれと同じくらい相当ひどい『体臭』がするの。普通の人にとってはね。
だから、こんなグルグル巻きの段ボールを渡して、中身も消臭剤やら密閉式のビニール袋やらでごった返しているってわけ。それなりの費用はかかるわ。でも、それでも私とムニアの生活は成り立つの。
臭いって酷なものね。私はムニアの臭いを感じない人間だけど、それだけ需要があるってのは…まるで臭いって、ドラッグみたいじゃない?」

「ええ…ええ…そうですね…。」
日本語を理解しているのかいないのか、彼はただ相槌を打つだけだった。

「それで?お金の用意はできているの?こんな長話、必要無かったわね。さあ、こちらが品物を用意したのだから、そっちもお願いできる?」

彼は擦り切れた灰色の財布から万札を数枚取り出した。ホット・バターがそれをひったくる。

「…2枚足りない…。」
ホット・バターが掠れた声で絞り出す。苦しみの予感が露わになる。表情も思いつかないくらいに呆然とする。言葉にできるのは呼吸の早さ。

「許してください。」
彼は段ボール箱の商品を掴み、ソファから立ち上がろうとする。すると、ホット・バターが残りのカプチーノを彼に思いっきり吹っかけた。その勢いのまま飛んでいったカップは店の遠くで砕けた。

「…お金が足りないじゃないの!家賃が払えないじゃないの!!冗談じゃない!あんたたちの性的志向なんてしったこっちゃないけれどね、こっちは生活のために知恵を絞って色んな事やってんだよ!
わざわざ私たちのプライドを踏みにじるためにこのカフェ・ミラージュに来たってのかい?笑えるね。」

とっくにぬるくなっていたカプチーノは彼に火傷などの、何の物理的な衝撃は与えなかった。
しかしそれにもまして華奢な彼女、ホット・バターが行った一連の行為に精神的な痛みはあったようだった。

彼が最後に導き出したのは、残りの2枚を、素直に財布から出すことだった。
カップの割れた音を聞きつけたオーナーは場面の一部始終を見ていた。オーナーが彼にタオルを差し出すと、彼はそれで濡れた顔と上半身のシャツを拭いた。白色のシャツはまだらに染まった。

彼は最後に、「マトモじゃないな。屑にナッチマッタナ。」と言い放ち、オーナーに裏口から出るように促され、夜の新大久保へと苦しげに逃げ去っていった。臭い商品と共に。午前1時半。

オーナーは再びテレビを点ける。それから床の掃除に乗り出した。が、一番大きな破片を拾おうとした時、ふと、

「ホット・バター、本当は彼が最初に出した金で充分だったんだろう?」オーナーが気づく。
「ええ、そうよ。それで何が悪いの?生活のためだもの。チャンスがある時に貯蓄するに越したことはないわ。ちょっと待ってて、床の掃除、手伝うし、カップもいつも通り弁償するから……。」

現実を覗くとゴシップのそのまたゴシップのそのまたゴシップ。乳粥みたいにそいつをがっつく自分がいる。

カフェ・ミラージュでホット・バターはいつも取引をしている。
目を閉じて、街ゆく人々の嘆きだけをカプチーノのように苦く抽出して。

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