だいじょうぶ、とポメラニアンは言った
やさしい人間に、無条件にあたたかな時間が与えられ、やさしい世界が与えられるわけではない。どうしてこんな世界になってしまうのだろう。そんな思考を巡らして、ポメラニアンは私の方を見ていた。
夜遅く帰ってきて、靴を脱いだっきり玄関で座り込んだままの疲れはてた私をポメラニアンがやはり見ていた。でもふたりとも何だか気まずくて、ムードがしーんとしている。
ひとり私は懸命に自分を励まそうとしている。懸命に自分を責めようとしている。無気力よりは痛みがあるほうが、無気力よりは喜びがあるほうがマシだと自分に言い聞かせている。私が私の味方だと言い聞かせている。
……この世界に疲れてしまったよ。どこでも、なんでも、煮るなり焼くなりしてくれ。でも、いいさ。何も決まらないよりは、今日みたいに何かをしでかしたほうがいいさ……
すると、だいじょうぶ、とポメラニアンは言った。ああ、そういう時が幾千もあればいい。
ポメラニアンは次のように言う。真剣に。
運が尽きたとしても、命は尽きないわ。やさしい人はそこを勘違いしてる。「運の尽きが命の尽き」だって勘違いしてるやさしい人にだって、そのやさしさのひとかけらをじっと見つめてあげれば、どこかに強情で野蛮な部分が残ってる。命の尽きは、そんな根深い部分ではまだ尽きちゃいないものよ。
人の生活において、強情であることって、時にはやさしさよりも大事なことよ。強情でなければ、運だって命だって、はりきってこないもの。
諦めちゃだめ、なんてセリフはそういう時に使うものね。やさしさの自覚、あるんでしょう?人とはなんかちがって生きてきたなって自覚、あるんでしょう?
やさしさと同じくらいにしたたかに生きないと。本当の意味でやさしさを誰かのために使いたいのなら、ましてや自分のためにやさしさを使いたいのなら、「強情なやさしさ」を決して忘れてはいけないわ。
そしていつかは、自分自身のためにやさしく生きて。…でもね、本当につらいときは、私のために生きていいわ。私のほほえみを思い出していいわ。
言いたいことは分かるでしょう?ずっと愛してる。ずっと愛してるわ………
涙で乱れた視界を振り上げて見たのは、今は亡きポメラニアンの写真だった。愛犬はにっこり笑っていた。
鈴虫の鳴きはじめる季節だった。遠くで花火の音も聞こえた。
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