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ホット・バター(新大久保のための下書き)

失うものが多すぎた。けれども目の前のにごった夜明けに、あと少しだけ手が届かないだけさ。少しの風にもさらわれてしまって、陽気な言葉も出せない今を、新大久保のベンチに座ってホット・バターは過ごす。夜明け。ホット・バターは夜の絹糸を自ら生み出す蚕となり、それを編む人間機械にもなるだろう。
恋人の一人でも作れば気分も変わるだろうか。しかしホット・バター、つまり彼女の血で作る子など、また同じ、発作の子を産むばかりなのではないか。少しの風にもさらわれてしまう子。かつて日本には、仁義のためにも腹を切る文化があったと言う。
そして彼女は完結させられた養蚕場のような気分に襲われる。早朝の目覚める五分前にも見た夢の場の中にも滑り込みたい工女は彼女で、そう、人の寿命がもっと短ければ、彼女はこんな苦労はしなかったはずだ。虚無。
ホット・バターは虚無の願望を、しかも重たい虚無の願望ではなく、少しの風にさらわれるような軽い虚無を、これから先、うまく行けば六十年も七十年も積み重ねてゆかなければならないことを異常に懸念している。
深い交わりを知ってしまった妖精たちのような、ダイヤモンドの本質的な価値を知ってしまった海賊たちのような懸念。そしてそんな懸念をひと蹴りにするムニアが、確実にホット・バターの内部に育ちつつある。例えばムニアは次のように言う。
「お金よ、お金。愚痴を言葉で解決しようとする前に、あなたの場合、圧倒的に稼ぎが足りないの。もっと脳みそを有効に使いなさいよ。効果というのは、いつの時代も徹底されたものしか効果として残らないものでしょう?だから、捨ててしまえばいいのよ。」
「え?」ホット・バターは聞き返す。
「捨ててしまうの。あなたの国境(くにざかい)の雪の故郷も、過去の大切な人も、歴史も、思い出も、感情も、皆すべて捨ててしまうの。もちろん、虚無もね。誰もがいつか、そんな日が来るんじゃないかって、実は願ってる夢よ。今、それが来ているって言ったら?私たちの風(かぜ)を生きていようとする執着も投げ捨てるの。信念を汚すの。それは私とあなたとの距離でしかできないわ。」
ムニアの発作じみた含み笑い。

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