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ちょっと現金を給付してくれないか?(新大久保のための下書き)

ホット・バターは「発作」持ちだった。そのためかどうかは知らないが、彼女――ホット・バターは、マトモな職業に就くのをいつの頃からか、あきらめたらしい。彼女は新宿と新大久保を行き来する、立派な下着売りだった。俺の知り得る限りでは、ペパーミントの葉のように清涼な。しかしなにも全てのペパーミントが例えば処女である可能性を捨てているわけではない。現にホット・バターは処女ではなかった。
発作のことをホット・バターから一度だけ聞いたことがある。「浩太、私の発作はね、『目覚め』が何よりもつらいの。教会でお父さんにこっそり話したことがあったけど、やっぱり取り合ってくれなかった。でもね、その帰りにね、ソフトクリームを一緒に食べたの。ああ、おいしかったなあ。」
ホット・バターがひりつく声で言う。二十代前半の若さの栄光にすがりつきながら、ひとまわりふたまわりも、俺からはなれた原産地不明の女体を、まぜるみたいにねぶるみたいにする行為の終わりにホット・バターのスマホを借りると、2021年1月のツイッターはむごたらしいウイルスのせいで爛れ、破裂死していた。どのようなツイートも、もう健康増進目的ではないらしい。俺たちはこの問題についてはあくまでも冗談な傍観者でいたかった。あくまでも冗談な不在者でいたかった。
不在……、ここは新大久保の住宅街、百人町7丁目5の6、フロム・ハウス202号室。この部屋のもう一人の持ち主、ムニアはもうじき、横浜の森中精神病院から久々に引き上げてくるはずだった。俺とホット・バターは延期された東京オリンピックの頃にカフェ・ミラージュで知り合って以来、この部屋の主、ムニアの帰宅を待ちわびて来た。それが今夜なのだった。「この部屋では今、三分の二が存在している。」発作の話を無視して俺は素早く続ける。「俺たちふたりが、危なっかしく三分の三が産まれかねない危険な行為を繰り替えしていたうちに、俺たちの街はとうとう死の終わりを告げられようとしている訳だ。馬鹿らしい。」
ムニア?彼女の本名なんてどうでも良いじゃないか。俺は首元の痒みを掻きむしった。人差し指に付着したわずかな血液がどうにもけがらわしく見えた。その指で「緊急事態宣言」のトレンドをひたすらスワイプし続けると、血はそっと画面の向こうに溶け、ホット・バターはコーヒーと紅茶を奇妙に入り交ぜた飲料を一息に飲み、副作用としての吐き気を背負っているようだった。完璧主義を気取った自称26才の知らない自称女のアカウントがスワイプの流れに沿うと自身の副業を喧伝していた。借金まみれの自分がまるで生き返ったかのような日々を過ごしている、と。望むような世界だ。そう、砕かれ、傷ついた思い出たちは決してしずかな日々のうちに消えゆくものではなく、地層のように積み重ねられ、今をつくる。今、どのように生きていても。「浩太、私の発作はね、『目覚め』が何よりもつらいの。」ひりつく声がニュー・ノーマルを捉え損なってようとしている。俺はまだ誰とも契約なんてしたくないんだ。
俺はホット・バターの左の薄暗くよどんだ鎖骨を強く噛んだ。炎症を起こして膿んだままの皮膚からは不思議な甘さの汁が出て、いつもは一方的に飲み込むだけのその液体を、何故か俺はどうしようもないバグのように吐き出した。空の赤ワインの安瓶の集合体のうちの一つにそれはひっつき、流れ、国家のように泣き出すかのように見えた。
その時、ガラスの小窓をコツッと叩く音が聴こえた。山の音でも風の音でも波の音でもない。そんな音は時代の感傷に過ぎない。セールス・ウーマンが性急に道端を歩くようなその音で俺たちの202号室は一層ゆがんだ空間になった。三分の二は三分の一ずつに再び断たれ、俺は黒々としたシーツに被さったままのホット・バターの首根っこをもう一度だけ強く揺さぶってみると、小窓の音はその快さに呼応するようにピンポン玉が反発するように聴覚に透けた。眩しい陽の予想される新年の夜明けの近い路上で誰かが抽象的な音を生み出し続けている。抽象的だ。抽象の天使は母体のように誰にでも訪れるものだが、抽象の父性は誰にでも訪れるものではない。そして俺はムニアの訪れを感じた。カーテンを開けるともう一度、冷たい小石がガラスの壁を叩く。ホット・バターはひいっ、ひいっと怯えている。発作かもしれない。高潔なハヤブサが狩りで呼吸の吸う瞬間のようなその怯えがしびれとなって空間全体に響き終えた後、俺はガラス窓を開け、あらためてくすんだ街頭に佇むムニアの姿を確認した。三分の三。見通しのつかない陰翳深い世界にもいつか新しき均衡が保たれ、例えば202号室には1つの小石が投げ入れられる。それは無い銅鑼を叩くような禅の音だった。そして俺はムニアが無事に帰って来たのをほがらかに讃えた。よくもまあ、あんな奇妙で堕ちた人間がこの新大久保まで戻ってこられたものだ。「昔ね、お父さんにね、こんな発作があるのならね、『私、産まれてこなきゃよかった』って言ったの。」ホット・バターも今の窓に近づいてくる。「ムニア、『産まれてこなきゃよかった』って言ったの!」俺たちがミラージュで知り合って最初のカプチーノを頼んだ記念のマグカップが窓から投げ出され、スローモーションに崩壊してゆく。今度は大型のコンクリートの破片がガラスに大きな穴を開けた。穴は、太り過ぎたキュウリの刺身に向かって水っぽいチーズをふんだんに撒き散らした一皿のような円みを描いた。割れたガラスには思考のちょっとした既視感があった。一つの生活的美さえ安定してしまえば、ガラスの光を吸うような錆びた試みも要らないのかもしれないのに、俺とホット・バターはムニアの帰りを待っていた。その意味は何だ?円みに息を吹きかけると白い。俺は三分の二に向かって思わず「それが新しい契約のつもりか?」と叫ぶと、ムニアは「調子はどう?私、大人になったわ。」と応えた。しかしガスマスクの内側の湿疹のように未発達なムニアの背格好はみすぼらしかった。何もかもがセピア色にぼやけた世界ならば、あるいは安楽死のようにもきらめいたかもしれない姿が俺たちのアパートに溶け込み、一瞬、全ての音が止んだ。ホット・バターは然るべき下着たちをリュックサックの中に急いで詰め込み、夜明け前の新大久保を離れた。すべては俺たち三分の三の生活のためだった。
「病院?けだるい花畑の中みたいだった。なかなか楽しかったわ。」ムニアは出来る限り集めまわったマグカップの破片と破片とを瞬間接着剤で付け合わせてゆく。ひび割れは雷のように鋭く深く傷跡をのこして、詩情あふれるカフェ・ミラージュのカプチーノさえもひとたまりもなく、永久のこぼれを待つ。とすると、マグカップはマグカップとしての自身の役割をもう失ってしまう。検閲され、俺たちと同じくどこにも帰属できないまま。
「そりゃ、争ってばかりじゃ、人は悲しすぎるからな。俺の言葉じゃないぜ。」疲れて酔って裂いたポスト印象派のポスターたち、集団生活を続けていた数匹の微小な灰色のくねくねと曲がる蜘蛛たち、インスタントコーヒーの床から隆起した粒たち、そうしたものを俺は久々に掃除に取りかかっていた。いつぶりだろう?多分、俺とホット・バターが知り合って以来はじめての掃除だ。どうってことはない。部屋の掃除から全ての物事ははじまったりおわったりする。日本の名庭園では絶対的に必要な規則もこの部屋では絶望的に無視され続けていたのが、今日この日に限って、やっと復活を遂げたというだけの話だ。なんだかセンチメンタルな掃除だった。トランプタワーのようにムニアはまだマグカップの修復に取りかかっている。そのひび割れの向こうに彼女の顔が見え隠れする。とてもじゃないが、美人とは思えない。花畑の中にいるムニアはなにかの救いを求めているようにも見える。何の救いだ?不老不死みたいに都合の良い妄想ではないことは明らかだった。どんな瞑想を積んだとしてもどんな徳を積んだとしてもやはり時は過ぎていってしまう。傍観者的視点で見れば、若い時代というものは、それほど重要ではないのかもしれない。コーヒーの粒を指でこなごなにして鼻から吸うと俺は少しずつ焦った別れをつげたくなる。傍観者的視点に?
「ムニア、病院のことをもっと話してくれよ。マトモになって帰ってきたんだろう?このご時世によくもまあ生きて帰ってこれたもんだ。俺たちはこの頃退屈し過ぎていたんだ。ホット・バター以外の顔なんてマスクのせいで覚えちゃいられない。さあ、話せよ。大人になって帰ってきたんだろう?」
「そうね、いろんな人がいたわ。コカコーラが飲みたいって一日中叫びまわってる人とか、夜のNHKの番組に毎日自分が出演してるって思いこんでる人とか。でもやっぱりみんな貧乏なのね。残念。貧乏ってこの世で一番知られたくない。知られちゃったら、やっぱり嫌よね。ナースもみんな分かってるの。私たちがみんな貧乏だって。浩太、やっぱり貧乏って血なのよ。産まれた時から決まってるのよ。あははっ。『産まれてこなきゃよかった』だって。ねえ、聞いた?あははっ。ミルタザピンでも飲ませておく?」太陽が都市に排気のように上がり、202号室に一つの光の河が流れる。数匹の蜘蛛の死骸は聖者のように賢く満載のごみ箱へと沈んでゆく。俺は両目のうねった飛蚊症をあのガラスの破片に突っ込んだら、さぞかしシベリアで行われるマラソンの後みたいにさっぱりするだろうなと考えている。ムニアの笑い声を直接聴いたのは、実に半年ぶりだった。その間ずっとムニアは「急性期」それから「慢性期」と呼ばれる二つの病棟に入院していたわけだ。横浜の森中精神病院。ムニアがそんな長い間入院していたのは単に、美人じゃないからかもしれない。美人はあの病院をあまりにも打ちのめしてしまうだろう。壊してしまうだろう。森中病院はそういう病院だ。昔っからそうだ。ムニアの偏執的に資本主義を愛するその性格も半年間何も変わっちゃいない。
「笑いごとじゃないぜ。誰がお前の入院費を支払ったと思ってんだよ。あいつの下着売りが無けりゃ、今ごろ俺たちは東京都庁あたりのガード下かなんかで文字通りのホームレスだったかもしれないんだぜ?無職で精神疾患持ちの素性の知れない人類が三人。こりゃあただごとじゃない。どんな医学でも政治でも俺たちの破滅を止められはしないだろうな。」
そう自分で言っておいて、俺は何か小さな後悔が言葉尻を捕え、ぞわぞわと自分の精神に侵入してくるのを感じた。真冬の外気や悪性の風邪に似た寒気だ。俺はしつっこい飛蚊症を数度まばたきで洗い流して、ムニアの返事を待てるだけのエネルギーを自家発電的に温めた。
ムニアはロックのウイスキーをシュークリームをつまみにしてまた一口飲んだ。ウイスキーもシュークリームもカフェ・ミラージュで売られている代物で、結構な度数のものだった。病院生活中、アルコールは禁止されていたはずなのに、ムニアの黒い目は妙に座ってみえる。
「久しぶりに東京に帰ってきたら、こっちも何だかみんな重たいニュースばっかりね。『退院おめでとう』って、ほら、ナースのみずきさんなんかは祝ってくれたけど、お花畑から戻ってきたら、またすぐこんな生活に戻らなくちゃいけないのね。あーあ。私、退院したら今度こそ韓国に行きたかったのに。ホット・バターにもっと下着履かせて、お金貯めてさ…。…浩太、あんた最近何してるの?学校行ってるの?もういい加減退学した?」
「退学した。俺は自分が思うよりも、頭が悪かったんだ。ムニアの言うとおりだったよ。何もかもが金のムダだった。」
「産まれてこなきゃよかった?」ムニアの思想が俺をそのままに覗き込む。
「少なくとも貧乏にはなりたくなかったな。収まりのつかない話になりそうだ。産まれちまったもんは仕方がないだろ。こんな馬鹿げた話信じてもらえないかもしれないけど、俺はこの半年くらい、この部屋から出てないんだ。わざわざ出てゆく必要もなかったし、例のウイルス騒ぎもあるからさ。」
「この部屋から出てない?」ムニアが聴き返す。
「この部屋から出てない。それは初耳ね。じゃあ、あなたは本当に言葉通りの無職になって、しかもずっと引きこもりしてたんだ。支援団体にでも助けを求めればよかったのに。」
「ムニア、逆の立場だったらどうしてた?」
「もちろん、支援なんて断ってたと思うわ。失踪したほうがマシね。ねえ、私たちこれからどうしようか?本当に失踪でもする?私、よくあの病院で失踪しなかったと思わない?院内外出の時にこっそりトイレから逃げ出そうとかしたけど…。よくもまあ退院まで正気でいられたと自分でも思うわ。」
「それだけ精神が健在だったわけだ。逃げ出す…失踪か。自殺よりは幾分マシに聞こえるな。昨夜のホット・バターの様子、見ただろ?ここ最近、ずっとあんな調子なんだよ。このアパートは相変わらず『外人向け』『事故物件』住宅で売り出してるからさ、多少叫んだり暴れたりしても文句は言われない。それでももう、家賃の取り立てにも食料の買い出しにも、俺たちの暮らしの限界が近いのは事実なんだよな。俺もできることなら正気でいたくないよ。映画とか絵画の世界のさ、ループする人物みたいに生まれ変わりたいよ。」光の河はいつの間にか軽やかな紋章をガラス窓の向こうに映す。その模様を夢心地に眺めていると、俺は現実めいた考えを巡らすのに嫌気がさしてくる。金、金、金。それでも、世間一般に逆らってたどり着いたこの馬鹿げた無知な202号室をただの「貧乏」で怖気ついてあけ渡すわけにはいかない。ああ、陰湿なフロム・ハウスの家賃取立人。奴は俺と同じ大学を卒業した挙句、早熟に金の大切さに気づいてる。でも奴の精神年齢は中学生で止まってるんだ。Youtubeのおすすめみたいな音楽しか知らない。鼓膜がすり切れるまで紅白歌合戦にエクスタシーを感じてるんだ。
「とにかく、ホット・バターが商売から帰ってきたら、俺たちこれから三人どうするかを今度こそ真面目に話し合わないといけない。茶化すのは許されない。俺たちはもうとっくのとうに追い詰められてたんだ。若さじゃあ、もう許されない所まで。」俺はムニアのウイスキーを引ったくり、残りを一気に飲み干した。予想した通り、それは絶望的な味がした。マトモな『大人』への招待は俺たちにとって死の宣告に等しく、まず初めにそれを拒んだのがムニアで、そのせいでムニアは精神を強く病んだのかもしれない。それが病院送りになった理由だった。
「ムニア、カフェ・ミラージュも2月末で閉店するんだって。本気かどうか知らないけど、マスターは『廃業したら夜逃げする』って言ってたぜ。俺たち、縁起でもないけど最後くらいは店に顔を出さないといけないよな。マスターが死のうが生きようが、別にどうでもいいんだけどさ、あの店がつぶれるのはちょっとショックだよ。」
「才能が無かったのよ。マスターにね。貧困層に成り下がって、もうオリンピックなんて一生観られそうにないでしょうね。彼の夢だったのにね。かわいそうに。ああ、でも私の『夢似阿』っていう題の絵を貰ったのは嬉しかったな。もうこの部屋には飾ってないのね。今どこにあるの?」
「ミラージュに返したよ。生活に困ってたからな。おかげでお前の退院まで家賃が持ったんだ。二十万円でマスターが引き取ってくれたよ。しかしどうしてああやってマネジメントが下手くそなんだ。五千円でも良いって俺は言ったんだぜ?でもマスターがどうしてもって引かないんだ。」不気味に漂う久しぶりのアルコールの酔いだけが俺を産まれてきて良かったと思わせてくれるような正午だった。ガムテープで補修したガラスの穴の向こうの街路ではデモ行進が行われていた。反韓デモではない。【普通の風邪!】とゴシック体で書かれたプラカードがいくつも掲げられている。これで何度目だ?もう散々だ。こりごりだ。俺たちの終わりもこの世の終わりも近いのかもしれない。俺は静かにガラス窓を開けてウイスキーの空瓶をデモ隊に向かって投げつけた。それは小太りの中年男性の頭部に上手く命中し、奴は最初ひどい痛みをこらえつつも数歩の行進を続けたが、遂にアスファルトの路上に倒れた。
デモ隊が突然水をふっかけられたアリの群れみたいにパニックに陥って瓶の犯人を必死に探すのと同時に俺は身をかがめた。子豚みたいなサイズまで小さくなった俺を見てムニアは声を出さずに笑う。豚みたいに太ってるのはお前じゃないかとムニアを睨みつけると、202号室のドアが開いた。中年男性でも見知らぬデモ隊でもなく、入ってきたのはホット・バターだった。奇妙な足取りで俺の前にへたり込んでしまうと、その直後に、ホット・バターは抱えていたリュックサックを窓から放り出そうとしたのを俺は静止させ、思いっきりホット・バターの右ほおを平手打ちした。それは俺たちの日常の延長線上の暴力に過ぎなかった。
「あのね、一枚も下着が売れなかったの。一枚も。私がお店に入ってね、ソフトクリームの話をしちゃったからかな。」
「はあ?なんだそりゃ?ソフトクリームの話なんてどうせ俺だけじゃなくて、気にかけてくれそうな店員全員にしゃべりかけて回ってんだろ?もっと分かるように言え。店の外人にも分かるように簡単に話せ。」
「店長にね、『緊急事態宣言が出たから、お店がもう苦しいから、当分取り引きはなしね。』って言われたの。」
「お金はもらえなかったってこと?」ムニアが幼稚園児のいたずらに仲裁を下すような声色でホット・バターを問う。デモ隊は正気を取り戻したのか、喧伝が街の向こうへ遠くなってゆく。街路を見ると数人が頭部を怪我した男を取り囲んでいる。救急車でも待っているのか?よくよく見ると血の跡が道路に残っている。
ホット・バターは突然服を脱ぎ出した。か細いホット・バターの身体は二週間くらい着っぱなしのダウンコートやらワンピースやらブラジャーやらにくるまれていた。冬っていう季節はそれらを一つ一つ脱がしてゆくのにじれったい時間を与えてくれる。現金をいつもリュックサックではなく腹巻きに挟んでおけとホット・バターを調教するのにおおよそ三ヶ月はかかった。発作のせいなのか知らないが進行性の麻痺みたいにホット・バターの白痴はどんどん進んでいる。俺は腹巻きのどこにも金の仕込まれてないのをまざまざと見せつけられて、絶望してホット・バターのみぞおちあたりを思いっきり殴った。彼女の裸は特に美しくもない弧を中空に描くこともなく、その代わりにげえっ、げえっという嘔吐の音だけが聞こえた。嘔吐物は無かった。俺は高ぶった絶望を抑えられなかった。悪い癖だ。一気に畳みかけるようにホット・バターの身体に馬乗りになって彼女の小ぶりな肩の円みをえぐる。既に青あざの出来ている右肩のそこは治りかけていたはずだったが重点的に生のこぶしで叩いてゆく。と、俺は自分の下半身にあたたかな血液が巡ってくるのに目覚める。マグカップの修復はさておき、ムニアはリュックサックの中身の下着を一枚ずつ色分けしている。俺の頭はうつろな状況と暗い思考停止の、動物園の肉食動物か?今ここは檻で閉ざされた202号室、俺が今2021年の動物園にいるのは俺のせいじゃないというのにアルコールがもう一度俺を誘う。俺はホット・バターの顔に新しい赤ワインを花びらのように振り撒いて、その唇を搾り取った後、自分の硬直を若い青あざに何度か叩きつけて、黒も白も決定しなくていい世界にさあ連れて行こう。金。光の河。こんな失態の経験を重ねながら歩み続ける運命だというのなら俺は愛想を振る舞うのをやめようと思う。俺は気の利いたセリフを思いつく回路を自己の内側で改造してしまおうと思う。「俺たちは単なる傍観者でいたかった。が、もう宴も終わりだな。」チューインガムの噛み過ぎで奥歯がけずれその神経に触れたような微かな震えの混じった声だった。
「そして俺たちは等しく、これから全てを凍りのような眠りにつかせるか、それとも温かな死体の可能性を受け入れるのか、進みたいと思っていた道を思い出すのか、最後には破滅するのか、いろいろと錬金術みたいなことを考えないといけなくなっちまった。」進みたい道?そんなものは考えたくもない。道なんてものが仮に存在するとすれば、それはどうやっても地雷の仕込まれた荒地を単身進むようなものだ。俺はいつものようにホット・バターの首を締め上げる。抵抗する力もなくホット・バターは気絶していった。それも調教の末に仕組んだ技だった。気絶とともに硬直もしぼんでしまった。馬乗りを止め、だらけて重たいホット・バターの身体をベッドまで何とか運ぶ。ベッドの下にどのくらい新品の下着のストックがあるのかを見る。あと数セット。あとそれだけしかない。鼻をすするとワインの味が喉を通る。ちくしょう。明日にだってあの取立人は202号室をノックしに来るだろう。
「リュックからこんなのが出てきたわ。」ムニアは小さなチラシを俺に渡す。【普通の風邪!】俺はそのチラシで赤ワインまみれのホット・バターの顔面を雑に拭く。チラシは水分を全く吸い込まずに紙ではない別の物質のようにホット・バターを撫でるだけだった。
「発狂したい時に自由に狂えない時代なんて、不便な時代よね。」ムニアが続ける。
「産まれてこなきゃよかった。私たち、こんなウイルスだらけの時代に追い詰められるくらいなら、1975年くらいに産まれてきたほうがマシだったと思わない?」
「思わない。過去をぺちゃくちゃいじり倒すのは媚びの上手い芸術家と政治家の仕事だ。どっちも世界を三分の四にしたがる余計なガソリンどもだよ。未来に向かって誤爆して、俺たちの今をどうしようもなくしてる。」
「ねえ、みずきさんって、採血下手なのね?私、今でも左腕を曲げたり伸ばしたりすると、腱みたいなのがずきずき痛むの。」そのムニアの左手には修復されたばかりのマグカップが握られていたが、曲げ伸ばしの犠牲に、また砕け散った。あとにはホワイトノイズのような静寂が残り、俺はしぶしぶ1975年の偽の思い出に心を浸した。俺だってマトモに産まれたかったよ。
「何だか今日は寒いな、凍えるくらいだ。おかげで涙も出ないよ。」ホット・バターの裸の上にシーツをかける。胸元に耳を当てると貧相な鼓動が聞こえ、俺はほんの少し安心する。俺たちの商売道具はまだ終わっちゃいない。まだ残された時間は少しだけあるかもしれない。
「ムニア、エスタゾラムもニトラゼパムも病院で飲んでたんだろう?どうせ。」
「よく覚えてるわね、電話で少し話しただけなのに。処方された分も持ってるわよ。三週間分くらい。」
「これからは飲むなよ。できるだけ貯めておいて、いざという時にホット・バターに『適量』を飲ませるんだ。あいつこの頃わがままが過ぎる。いびきも歯ぎしりも酷い。」
「共同生活が戻ってきたってわけね。ホット・バターの体臭で金を稼ぐ生活。」
「生活ねえ。」俺はため息をついた。ムニアはマグカップの欠片たちを俺の足元に投げはじめた。そんな遊びが流行ってるのか?裸足に当たるそれらは幸福な時間のなごりには間違いなく、俺は三分の一だった頃の自分が懐かしくなってしまった。清らかさを信じていた自由と解放の過去を。
「ホット・バターが目覚めちゃったら、新しい下着を履かせてもう一度失神させといてくれ。どんな方法でも良いからさ。店が開く時間になったら、今度は俺が店に行ってくる。」
「もう何も売れないのに?」
「202号室は待っていれば誰かが餌をくれる母なる動物園じゃない。家賃がかかってんだよ。少なくとも今回は絶対に買い取ってもらわないと困る。それに店長と俺はほぼ初対面みたいなもんなんだ。ちょっとは話が変わるかもしれない。」
俺はクローゼットを開け、両親に買ってもらった新品同様の就活用スーツ一式を取り出した。これももう遠い思い出の一つだったのに、こんな所で役に立つとはと嘆きたくなる。しかし同情してくれる奴はこの202号室にいない。ましてや同学年の奴らなんてのは今ごろ就活スーツなんてものからマトモに卒業しているはず。
破産寸前の202号室がまるで生き返ったかのような日々を過ごしている、という未来。望むような世界。そう、砕かれ、傷ついた思い出たちは決してしずかな日々のうちに消えゆくものではなく、地層のように積み重ねられ、今をつくる。今、どのように生きていても。
俺は言葉を止める。ホット・バターの周りには食い散らかしたカップ麺や行為を終えた乾いたティッシュやらが足の踏み場も無くまだ散乱している。俺は諦めて目を閉じる――この生活の呪いを剥がすための奇跡を、マトモじゃない下着の金でまだ起こしてみようってのか?それが悪夢なのは充分わかってる。一体俺たちはいつまで若さのせいに、他人のせいにできるんだ。別のデモ隊が再び202号室の街路を訪れて叫んでいる。【普通の風邪!】
「精神病院の話、もっと聞きたい?」ムニアが言う。
「また今度で良い。しばらくはどんな言葉も耳に入れたくないな。店長に向けた気の利くポエムをひねり出すのに忙しいんだ。」
外を見ると頭部損傷の男はいつの間にか街路から消えていた。もしも男が死ねたのなら、世界からまた一つくだらない争いが消えたのかもしれない。これは医療関係者への冒涜かもしれない。これはウイルスへの伝言かもしれない。これは表現の自由かもしれない。これは多文化共生かもしれない。これは検閲かもしれない。これは言葉のマスターベーションかもしれない。
ああ、頭の悪い俺たちは俺たちのサバイバルだけで精いっぱいなんだ。だからじゃないが、孤立した動物園に同情して、ちょっと現金を給付してくれないか?

文章は他の創作物に比べ、古都のようなもので、お金を頂くのはもう粋じゃないのかもしれません。 ただ、あなたのサポートで、私が未来の古都づくりに少しでも参加できるのなら、こんなに嬉しい事はありません。私は文章の住人であり続けたいのです。 あたたかなご支援の程、よろしくお願い致します。