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付喪神(つくもがみ)

「部屋の匂いを変えてみたの。嗅いでみて?」
 そう言うと彼女は淡い緑で着色されたガラスの霧吹きで霧を振りまいた。パソコンの先の画面が濡れた。
「そんなことしても嗅げないよ。僕の鼻はそれほど発達してない」
「新宿はどう?私たちが修学旅行で行ったまま?そんなわけないか」彼女は肩にかけたタオルで額の汗を拭う。ついさっき湯船から上がったばかりなのかもしれない。
「この街にいるとなんだか妙な感じかするよ」
「妙なねえ…」
「風景も建物ももちろん変わってる。でも相変わらずなんだかキッチリし過ぎてる。それにみんな建物の中で何かをしてる。でも覗き込もうとしても覗けない。建物の中に入るには許可が必要だし、一番驚いたのはコンビニにトイレが無いんだ。働いてる人はどうしてるんだろう?」
「嫌だわ。お手洗いの話なんて。久しぶりに話すんだから、もっとキレイな話をしましょうよ。ほら、消臭剤」彼女はもう一度霧を振り撒く。僕はそれを拭う。
「で?今夜はどんな匂いがするんだい?」
「そうね…今日のは……タンバリンの革の匂い」
 タンバリン。細かな金属の板。それらが僕の頭で増殖を始める。カタバミのハート形の葉みたいに瑞々しい光沢を放ち始める。
「そうだ、今日は妙なシマウマを買ったんだ。ミロードっていうお店で」
 僕はそいつをカメラの前に出した。金属製の、指で擦ると銅のような酸っぱい匂いのするシマウマだった。縞は無い。僅かな凹凸だけが黒と白のグラデーションを模しているに過ぎない。彼女の顔が一瞬止まり、苦笑いを始めた。
「ねえ、これで何個めなの?」
「わからないと言えば嘘だ。37個め」シマウマをガラステーブルの上に置いた。それは四本の脚を使い、マンションの一つの大地の上に立った。餌を探しているようにも見えた。あるいは聞き耳を立てているのもしれない。僕の夕飯はバターステーキだったから。
「ま、そういう趣味には口出ししないことにはしてるけど……今の仕事は大変なの?」
「そんなことは無いよ。君の仕事みたいに左耳ばかりに神経を集中するようなストレスは感じない。会う人はみんな大抵悲しんだり途方に暮れたりして僕の所へやって来る。あとは見送るだけ。卵を孵化させるだけの仕事。君みたいにヒヨコもニワトリも関係なく相手の仕事を聴くような仕事じゃないんだよ……卵」
「卵?」
「卵を買うの忘れた……ごめん、今から買ってきてもいい?」
「じゃあ今日はもう終わり?」そう言って彼女は自らの顔に霧を吹いた。タンバリンが物凄い轟音を立てた。僕はシマウマを大地から引きはがし、リュックサックのファスナーに取り付けた。今のところシロクマもライオンもスズメも同じようにこの場所で僕の移動を共にしている。
「明日はオムレツの匂いを嗅がせてあげる約束だろう?起き抜けの街は臭いがひどくて…いや、何でもない。とにかく今日中に済ませておかないと」
 日付がもうすぐ変わる。僕は新宿区をわずかに離れた場所で賃貸契約を結んだ。東向きの小窓を開ける。左を見ると新宿御苑の森が見える。右を見ると日本語学校の喫煙所が見える。誰もいなくてもタバコの臭いばかりが流れてくる。森の匂いなんて流れてこない。僕はこの部屋を案内してくれたオジサンに嘘をつかれた。季節が冷たくなれば風の流れも変わるのかもしれない。でも冬の森の匂いなんて不吉な気がする。それに僕はそういうもったいぶった植物公園がとても苦手だった。いかに手つかずに見せるかを入念に考え抜かれた自然など、童貞のふりをしてやり過ごす千夜一夜物語みたいなものだからだ。僕は近隣の住民に配慮しながらそっと階段を降りて高島屋の方へ向かった。
 街は思うよりも早く眠った。ライフラインを絶たれた小舟みたいに憮然として信号機の周りに人々はそれぞれの義務的な用事を抱え込んで輝きを浴びている付着物だ。新南口を抜ける。定期券を使って駅の構内を突っ切る。東口に出るためには外を歩いた方が早いのは分かる。しかし構内というのは一つの聖域でもある。昔、この駅で若者たちが騒動を起こしたというけれども。歌舞伎町の境界線に添って並ぶネオンの光が夾竹桃のぬめりみたいに不気味に見えながら縫うように歩きながら生卵の進化の過程を想像してしまう。
 肝心の店は臨時休業だった。仕方なかった。この店は青果店の隣にある。個人経営の電気屋だったが、卵だけがいつも抜群に安かった。USBとイヤホンの間に陳列された卵パックの一つ一つには製造者の顔写真が貼り付けてあった――つまり彼がこの店の主人である。趣味で鶏を飼っているらしく、レジの向こうからは常に鶏の匂いが流れて……――ケンタッキーのような陽気な匂いではない。
 カタバミ型の卵とタンバリン型の卵を思い浮かべているうちにいくつかの男女が歌舞伎町の奥へと歩いていった。老女は極めて真面目に見えた。「……ええ、ですから、どうして教えてくださらないの?電信柱が公道に立っているのか、私有地に立っているのか。もし私有地だったら土地の持ち主に承諾書を書いてもらわないといけないのよ?それともわたくしに、一本ずつ歩いて確認しろって仰るの?」もう一組は巨漢の男女で、男は消火器を持ち、女は一回り二回りも大きなラジオカセットを肩に担いでいた。バリトンサックスのソロが流れていた。そしてバイクが止まった。「あんたも卵を買いにきたのかい?」その通りだった。今どきこんなちゃちな店でスマホケースを調達するような都会人なんていない。
 防犯灯の灯の中で釣り上がった一重の切れ目だ。日焼けとシミが酷い。白ぶちの大きな四角いメガネとグレーのダボついたズボンとシャツ、バイクは出前用に酷使されるために設計されたような単色の黒だった。
「まあそんなところさ。でも閉まってるんだ。参ったよ。明日は絶対にオムレツを作らなきゃいけないのに」
「絶対にオムレツを?」彼の第二声は酷く聴き取りづらかった。声質が常に音割れを起こしているひしゃげた換気扇みたいだった。
「明後日じゃダメなの?」彼はズボンからスマートフォンを取り出した。画面も割れている。
「ああ、絶対にダメなんだ。ある人と約束があってね、破ったら酷い目に遭う。そんな風に未来の事を想像できなければ、わざわざ真夜中にこの店には来ないだろう?」
「俺、ここの店長の寝床を知ってるよ」だからなんだと僕は思った。店長が卵を産むわけではない。まるでウミガメのように涙を流しながら?彼はスマートフォンを再びしまい、
「取ってきてもいいよ」
「誰を?」雰囲気が奇妙に固まった。僕は質問の仕方を間違えたことに気がついた。店長を呼び出すわけではない。ここでの提案の意味はあくまで卵にあったのだ。僕は言い直した。
「卵を?」
「うん。三十分くれるならね。店長を起こして鍵を開けて、冷蔵庫に閉まってある卵を2、3個失敬してくるまでの時間。待てる?」
「待てる。どこで待てばいい?」バイクのエンジンが再び唸り始めた。夜の複雑な澱みを感じさせる原子の中の素が永遠に震える場景が頭の中で唸り始めた。待てるとも。待つのは得意だ。
「西口の排気口のあたりでいい?あっち側なら夜行バスが来ないんだ。嫌なもんだよ、奴らの後ろでうだうだ走るのは。バイクは?」
「乗らない」
「兄さん、仕事は何してんの?ここの人?」
「葬儀屋」

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