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【番外】邪馬台国と神崎吉野ケ里         土方水月 


 神崎は「加無佐岐」  ひじかたすいげつ


 昨年来、吉野ケ里遺跡で新たに発掘調査が行われた。その結果B.C.3世紀からAD3世紀の墳墓も出て来たようである。吉野ケ里遺跡のある佐賀県神崎郡には現在は吉野ヶ里町しかないといわれる。古代は「加無佐岐」と記されたという神崎はなぜ魏志に書かれなかったのか。

魏志に記された地名に神崎や吉野ケ里はないが、これらの地名がないのもおかしいと思い、そこに記された地名の表記法を研究考察した。

 

 その結果、多くは万葉仮名的表記であった。「一支」や「已百支」と書かれ、「いき」や「いおき」と読むと思われた。また、漢語からの記載法もあると思われた。「好古都」は「ハウコト」つまり「博多(はかた)」であり、「華奴蘇奴」や「鬼奴」という地名は「華奴蘇奴」は草書で書けば「加無佐岐」に近いし、「鬼奴」は「嬉野」と同じであると思われた。

 

 しかし、これらの読み方はまだ一般的な読みと認知されてはいないと思うが、その大きな理由は、もとの字(楷書)が草書から書き換えられる段階で間違っているためであるという意見がある。

 

 誤った記載である「支(キ)」は「支(シ)」ではなく「支」の一部が欠けた「キ」であり、「已(イ)」も「巳(シ)」や「己(コ)」ではなく、「すでに」という訓読みのある「已(イ)」であるにもかかわらず、「巳(シ)」と間違って書かれている。

 

 つまり、「一支」は「壱岐(いき)」と読むし、「已百支」は「五百木(いおき)」と読むべきであり、「好古都」は「ハウコト」つまり「博多(はかた)」であり、「華奴蘇奴」と「鬼奴」は「加無佐岐」と「嬉野」と同じであると思われる。

「卑弥呼」の読みも「ピメハ」であった。古代の「はひふへほ」は「ぱぴぷぺぽ」と発音されたといわれ、「母」は「ぱぱ」であり、「姫」は「ぴめ」であったといわれる。

 

 以前の神崎には、「神埼」以外にもたくさんの地名があったといわれる。「西郷」や「田手」などがあり、「せご」や「たで」と読んだかもしれない。その「田手」の一地域が吉野ケ里だったといわれる。「肥前国風土記」には、次のような地名がある。「基肄」、「養父」、「三根」、「神埼」、「佐嘉」、「小城」、「松浦」、「杵島」、「藤津」、「彼杵」、「高來」などがあり、これらの最後の二つと「松浦の一部」は今では長崎県に含まれるが、他は佐賀県にあるという。

 

 草書で書いた「対馬」や「一支」が「対海」や「一大」に間違われ、萬葉仮名読みの「已百支」や「邪馬臺」は「巳百支」や「邪馬壹」に間違われた。「いおき」と「やまと」は「しはき」や「やまいち」ではなかった。さらに、「好古都」や「鬼奴」は漢語読みで「博多」や「嬉野」であり、「鬼」は「橘」であったと思われる。また、「為吾」は「なすご」であれば「佐嘉(すご)」であり「蘇我」であり「須賀」であったかもしれない。「狗奴」が「久良」や「球磨」であったなら、「支惟」は「基肄」であり、「彌奴」は「三根」であり、「姐奴」は「彼杵」であり、「対蘇」は「鳥栖」であり、「躬臣」や「不呼」や「支惟」や「華奴蘇奴」は「香椎」や「武雄」や「城井」であり「加無佐岐」であったのかもしれないと思われた。


 そして神崎の西には山門ではないヤマトが。


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