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妄想アジア縦断旅行(1) その前に実際に韓国に行ったこと

妄想世界一周が無事終了した。この旅行で心残りなことがひとつだけあった。ワンワールド・エクスプローラーのルールで、アジアスタートの場合はアジアには二ヶ所しか行けないということだ。妄想アジア好きの私はなるべくたくさんのアジアの国・地域に行きたいと熱望したが、前回旅行ではそれは叶わなかった。

やっぱりアジアを旅したい!

私の心の中でさらなる野望がメラメラと燃え上がった。

前にも書いたと思うが、私の初めての海外旅行は韓国であった。1987年のことだ。大学で国際文化交流サークルなるものの責任者をしていたその年の春、私は韓国に渡ることを決意した。サークルの良き理解者であった韓国からの留学生チョンさんから韓国に来るなら案内するというお誘いを受け、後輩のさっちゃん(男)、チョンさんとその彼女と4人での、1週間の珍道中となった。

当時の韓国は日本にとって今のように気安いところではなかった。出来立てのパスポートをもってまず私が向かったのは、名古屋の韓国領事館。ここで観光ビザの申請を行った。ビザは必要書類を提出してすぐに発給された。領事館の方が韓国語なまりの日本語で「気をつけて楽しんでください。」と言ってくれたことを記憶している。

旅程はプサンからソウルへと向かう計画だった。まず大阪南港からフェリーに乗り、瀬戸内海を通り20時間ほどかけてプサンに到着した。フェリーからプサン港を背後に写真を撮っていたら、港の写真を取らないように注意された。当時の韓国と北朝鮮との状況は現在よりもシビアな印象で、韓国には停戦しているが戦時中といった緊張感があった。港や高所からの写真撮影は軍事上の理由で禁止されていたのだ。私は韓国の「窮屈さ」を肌で感じた。

この旅行はプサン〜キョンジュ〜テジョン〜ソウルと巡り、様々な衝撃を私に与えた。

韓国は当時すでにいわゆる国産車が街を走っていたが、ヒュンダイのロゴをつけているのは三菱の車。キアはイスズの車で、すべて日本車のOEMだった。唯一違っていたのが、韓国の国民車ポニーだったが、これもエンジンとシャーシは三菱製でボディのみオリジナルだった。

プサンで喫茶店に入った。喫茶店にはネスカフェの瓶とヤカンが並んでおり、コーヒーを頼むとお湯で溶かしたネスカフェが砂糖とミルク入りで出てきた。同行したさっちゃんは厳格なブラック派だったのでおかんむりだった。以降本物のコーヒーはソウルに着くまで飲むことができなかった。

食べ物はすべてがうまかった。動くタコの刺身「サンナクチ」には驚いた。猪の焼肉も食べた。あとて聞いたら、チョンさんはすべて辛さ控えめでオーダーしてくれてたらしい。

日本の文化は禁止されていた。しかしカラオケに連れて行ってもらったところ、日本の歌があった。歌ってもいいと言われてそのようにしたが、客の反応は冷ややかで悲しくなった。しかしながらこんなこともあろうかと、私は秘密兵器を用意していた。

韓国演歌界の英雄、チョー・ヨンピルの「釜山港へ帰れ」のシングル盤を購入し、ハングルをカタカナで覚えていた。披露の場があるとは思っていなかったが、なぜか暗記していた。それをそこで披露してみた。

客はめちゃくちゃ喜んでくれた。拍手してくれて握手を求められた。そのあとは日本の曲を何曲か歌ったが、感激した店員が私の歌を録音したテープをプレゼントしてくれた。そのとき韓国の人はおそらく日本をよく思っていなかったと思う。日本人がやってきて日本語の歌をうたうことは、その彼らには面白くないことだったのだろう。その明らかな日本人観光客が韓国の曲を頑張って歌ったことに、韓国の人たちが感謝を示してくれた。心の底ではお互いにわかり合いたいのだ。同じような顔つきのなんとなく似た言語を話す、海を隔てた隣の国。互いに複雑な思いがあるふたつの国だが、なんだか少しだけ分かり合えた気がして嬉しかった。

日本からの観光客は大抵の場合歓迎された。キョンジュでタクシーに乗ったときには、いいところに連れて行くと言われ海の見える崖に車を止められた。運転手がラジオをチューニングしたら、武田鉄矢の声が聞こえてきた。その高台に行くと聴くことのできる福岡のラジオ放送を、わざわざ聴かせてくれたのだった。テジョンで安宿に泊まった時は室内映画をサービスするから9時になったらチャンネルを合わせるように言われた。どんな映画かと期待していたら、丹波哲郎主演の時代劇でがっかりした。

ソウルは当時の東京と遜色のない近代的な巨大都市だった。この国でそこだけ異質と言ってもよかった。韓国の人は同行できないためパンムンジョムには行くことができなかったが、民間人がもっとも38度線に近づくことができる場所まで行った。ディスコ(今のクラブ)は生演奏だった。さっちゃんと町のサウナに言って風呂で日本語を話していると、70歳代と思われる方が訛りのある日本語で話しかけてきた。

「あなたたち、日本からきたのですが?」

「韓国は楽しいですか?」

もちろんハイと答えていたところ、少し冷たい口調で、

「そうですか、日本人でも韓国を楽しいと思うのですか。」

と言われ、なんとなくいたたまれなくなった。

今、日韓関係は戦後最悪と言われているが、実は当時ほどではないと思っている。当時は日本の方が先進的で、韓国は多くを日本から学んでいた。それに韓国にとっての敵はむしろ北方にあったので、日本と国交としてはうまく付き合っていたが、国民の心の底には反日、嫌日があったように思う。しかしそれは、日本へのジェラシーと憧れの思いも同居していたと感じている。チョンさんにも旅の先々で言われた。

「僕たちはこのような歴史的事実を踏まえたうえで、友だちでいよう」と。

私は歴史的事実とか、どっちが良いとか悪いとか、それを論じる気持ちはない。

ただ韓国はそれを歴史的事実として伝え続けているということを、その時理解した。そしてそれは今でも続いているようだ。しかし今は韓国も発展した。製造業や音楽、映像の分野では、日本を凌駕しているものが多い。文化的、経済的距離は以前よりずっと近い。互いの国の人は互いの国のカルチャーを楽しんでいる。日韓関係の悪化は政治ショーだと、あらためて感じる。

旅の終わりはキンポ空港から伊丹空港まで、大韓航空に乗った。スカイブルーの機体が印象的だった。操縦は荒かった。民間機のパイロットはほとんど軍の出身者と聞いて納得した。着地も荒く、すでに飛行機酔いをしていたと思われる後ろの座席の人は衝撃で吐いていた。こうして私の初めての海外旅行は終わった。

今回なぜ私が韓国旅行の思い出を書いたかというと、今回の妄想アジア旅行では韓国に行かない(行けない)からである。今回の旅行のテーマは、

アジアを陸路で縦断!

である。残念ながら韓国から陸路で中国に抜けることは、北朝鮮があるため不可能だ。そこで今回の旅はまず中国に上陸し、そこから陸路を辿ってシンガポールまでを妄想することにした。

新しい妄想旅行にしばしお付き合い頂きたい。



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