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卑弥呼と"神武東征”

「卑弥呼と邪馬台国の真実」には書かなかったが、

「卑弥呼」は「二回目に神武東征」により現れた。


二回の神武東征があった。

一回目は太平洋沿岸から淡路経由で。 

二回目は瀬戸内海経由で。

どちらも薩摩周りであった。

「卑弥呼と邪馬台国の真実」には書かなかったが、魏に行くのは当然船であった。

魏からも同然船であった。邪馬台国に行くにも船であった。

一回目はなぜ太平洋を通ったのか?遠回りなのに。

いや、遠回りではない。

むしろ近道であった。

天気が良ければではあるが、黒潮にのればすぐに近畿までたどり着く。

四国の太平洋沿岸は岩場よりも砂浜が多い。陸に避難するのはたやすい。

敵もいない。まず、人がいない。

瀬戸内海はひとがいる。

居るだけではない。

最初、土井が浜に来た時には、下関を通してもらえなかった。

海の関所であった。

当時は出雲族の全盛期。

日本海側も上陸させてもらえなかった。

そしてヒボコは初めは水上生活に。

二回目の東征は、単独では難しかった。

一度目のときに懲りていた。

八咫烏がいなかったら全滅であった。

そのため、「豊」と組んだ。

「台与」である。

「壱与」とも組んだ。

「伊予」である。

“神武”だけでは、一回目も二回目も東征は不可能であった。

一回目の「神武」は、前にも書いたが、「ウマシマジ」。

二回目の「神武」は「崇神の妻と子」。

後に現れる「神功皇后と応神天皇」のように。

元居たのは、「九州高千穂に西」。

当時は「舟」が交通手段であった。

「舟」は「船」ではない。

平底の船。

そのため川を通れた。

そのため、太宰府からは、玄界灘にも有明海にも行けた。

しかし、豊や日向には行けなかった。

山が高かった。山を越える川はなかった。

「高千穂の西」有明海。

「有明海」からは、南周りでなければ東には行けなかった。筑紫の北には出雲族の分家である宗像がいた。

当時出雲は強かった。

中四国と近畿と九州の北部を支配していた。

二回目は、懲りていた。

「豊」と組んだ。

崇神ミマキイリヒコーイニエは、豊玉姫との間に「トヨキイリヒコ」「トヨキイリヒメ」をもうけた。

しかしその前に、コノハナサクヤヒメとの間に「イクメイリヒコ」をもうけていた。

「イクメイリヒコ-イサチ」が後に垂仁と名付けられた。

二回目の神武東征は三世紀。

「卑弥呼と邪馬台国」に時代であった。

「卑弥呼」は周知のとおり「太陽の巫女」。

「豊」は「月信仰」であった。

「兎さ」であった。

「宇佐」は「ツクヨミ信仰」であった。

「アマテラス」は「卑弥呼と邪馬台国の真実」にも書いたとおり、「アサクラ」の意味。

「アサクラ」はもとは「朝倉」、九州であった。

つまり、「アサクラ」と「豊」は「男」と「女」であった。

「アマテラスと「ツクヨミ」であった。

そして、「巫女」は「月の兎」であった。

それで、近畿の「太陽」に「月」は一度目破れた。

二回目は破れることの内容にした。

「月」を捨てた。

「ツクヨミ」は「古事記」からもいなくなってしまった。

「アマテラス」はいつの間にか「太陽の女神」に。

<「卑弥呼と邪馬台国の真実」6/10発売>

hijikata suigetsu (hijikata-suigetsu.com)


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