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【先行公開】「双子妖狐の珈琲処」冒頭抜粋

 アルファポリスキャラ文芸賞応募予定分の先行公開です。

1章(途中まで)


 駅のトイレで鏡を見れば、ファンデーションはすっかりはげ落ちていた。涙の通った跡が筋になって、滲んだアイシャドウも一緒に流れて落ちている。これならすっぴんの方がよっぽどましだ。ボブカットはぼさぼさに乱れてるし、紺のスーツは涙の跡で襟元が汚れていた。こんな恰好でずっと電車に乗ってきたのかと思うと、情けなくてまた泣きそうになる。最終出社日だからって気合を入れたのが、すっかり裏目に出た。勤続たった半年、今日から見事に無職の身。
 はあ、と息をひとつ吐いて、鞄を開ける。引き取ってきた私物と、退職関連の書類とに埋もれたスマホを取り出すと、いつのまにかショートメールの着信があった。妹からだった。

『七葉(なのは)姉、調子どう? 最近こっち来ないけど、たまには顔見せてよ。梢(こずえ)』

 そうだね、確かに最近実家には帰ってない。行く用事もなかったし、毎日残業続きだったし。……仕事は、今日からなくなっちゃったけど。
 今の状況、父さんと母さんにはどう説明すればいいんだろう。梢にだけはそれとなく伝えてあるけど、二人に知られたら何を言われるか……父さんの怒鳴り声と、母さんの溜息まじりの呆れ声が、勝手に頭の中に響いてくる。
 ああ、皆のいないところへ行きたい。何を言っても、どれだけ愚痴っても、みっともなく泣いても、黙って聞いてくれるところへ行きたい。
 幸いにも、心当たりはある。不定休の頻度が高めだから、今日開いてるかどうかは運だけども。
 指先が勝手にショートメールを閉じて、スマホの通話履歴を開く。いくつも並ぶ同じ登録名――『アルカナム』をタップすると、数回の呼び出し音の後、電話は繋がった。よかった、今日は開いてるらしい。

「……お世話になっております」

 聞きなれた、低めの落ち着いた声。黒いもやが詰まっていた胸の奥が、すうっと落ち着いていく感じがする。

「喫茶アルカナム、空木蓮司(うつぎれんじ)が承ります」
「私だよ。藤森七葉(ふじもりなのは)……今日、何時まで営業してる? 今から行っても大丈夫?」

 溜息めいたかすかな音の後、返事があった。

「声に力がないな。また、仕事で何かあったのか」
「蓮司くんはすっかりお見通しだね。でも仕事の話は、今日で最後だと思う」
「……最後?」
「先月、大泣きした時あったよね。来月いっぱいでクビになっちゃう、って。それで――」
「……そうか」

 電話越しの言葉が、挽きたてコーヒーの香りと温度を運んでくるようで、油断するとまた泣きそうになる。だめだよ堪えなきゃ、アルカナムに着くまでは。

「……今日は、ちゃんと二十時まで開けてる。あんたが来るなら、早じまいもしない……が」
「どうしたの」
「今日は月の光が弱い。闇に呑まれないよう気をつけろ……じゃあな、待ってる」

 電話が切れた。スマホを耳から離すと、トイレの外で行き交う人々のざわめきが、騒がしく耳へ入りこんでくる。金曜夜の晴れやかな空気が、今はひどく毒だ。耐えられなくなる前に、行かないと。
 書類と私物でぎゅうぎゅうの鞄を抱えて、私は、騒がしいエキナカの地下街へ一歩を踏み出した。

 九月三十日。気の早いハロウィンフェアの告知が並び始めた中央通りをしばらく進み、コンビニの角を左に曲がる。そこから五軒目に、海鮮居酒屋の派手な看板がある。でも、入るのはここじゃない。派手な看板に隠れるように建つ、一つ隣の地味な雑居ビルが本当の目的地だ。
 赤色がすっかり褪せた『英国風喫茶アルカナム』の文字を横目に見ながら、地下階へ向かう階段を降りる。メッキが剥げかけたドアノブを押すと、からんからんとベルが鳴った。

「いらっしゃいませ。何名様で……あ、七葉さん!」

 駆け寄ってきたエプロン姿の男の子が、癖のある黒髪を揺らしつつ満面の笑みを浮かべる。いや、実際は「男の子」なんて歳じゃないのは知ってるんだけど、小動物っぽい仕草や人懐っこい笑顔を見ていると、どうにもこの子が成人男性という感じがしない。

「こんばんは、壮華(そうか)くん」

 私の声かけさえ待たずに、壮華くんはカウンター席の椅子を引いて、お冷とおしぼりを手早く並べた。机の向こうでは、色黒銀髪の青年――蓮司くんが、揃いのエプロン姿でコーヒー豆を挽いている。豆と刃が擦れる乾いた音が響く中、浅黒い手は一心にコーヒーミルのハンドルを回していて、私にまったく気付いていない。珍しいな、いつもなら、店に入ると同時にぎろっと睨んでくるのに。敵意は全然ないんだけども、正面から見つめられると震えが走るような目で。

「こんばんは」

 声をかけると、蓮司くんは手を止めて私を見た。切れ長の目が一瞬大きく見開かれて、すぐにまた細くなった。いつもの、肉食獣めいた鋭い、ちょっと怖い目だ。だのになぜか、この目に見つめられると安心する。
 蓮司くんと壮華くんは双子だ。だから、並ぶと顔立ちはそっくり同じだ。けれど蓮司くんは浅黒い肌に銀色の髪、壮華くんは真っ白の肌に黒髪だから、見間違えることはない。……同じ血を分けた兄弟が、ここまで白黒反転したような見た目になるのは不思議だけど、広い世の中、そういうことも時にはあるのかもしれない。
 表情もふたりは対照的で、蓮司くんは鋭い目つきで寡黙、壮華くんはいつもにこにこしていて愛想がいい。鋭い蓮司くんとやわらかい壮華くん、色々な意味で対照的だけど、ふたりとも、私の話を真剣に聞いてくれることだけは変わりない。

「……無事だったか、七葉。よくここまでたどりついたな」

 どこか大仰な口調に、少し可笑しくなる。笑える余裕が出てきたのは、蓮司くんの顔を見たからかもしれない。

「別に何もないよ、ここは令和の日本だし。月のない夜に闇討ちとか、してくる奴はいないって」

 口角を上げつつ、できるかぎりの明るい声を作ると、蓮司くんは少し首を傾げた。

「……さっきよりは元気そうだな」
「蓮司兄さん、さっきからずっと心配してたんだよ。七葉さんが消えてしまうかもしれない、って」
「そんな、大げさだよ! 別に――」

 消えるような理由なんて、と言いかけて、喉が詰まった。
 ここまでこらえてたものが、一気にせりあがってくる。重い鞄を抱いたまま、肩が震えはじめた。

「……そうだね。会社、辞めてきたし」

 正確には辞めさせられた――というか、試用期間後に正式採用してもらえなかったんだけど、その話はもう何回もしてるから、繰り返さずにおく。

「みんなに『次の職場では迷惑かけるなよ』って言われた。……私、よっぽど迷惑だったんだね」

 お荷物。役立たず。ひとりよがり。ずっと、それに類することばかり言われ続けてきた。そんなことないと、自分では思ってた。指示された通りのプログラムは、ちゃんと書けてたはずなのに。

「言われたお仕事は、そのとおりにやってたはずなのに。何がいけなかったのか、ちっともわからない」

 元々、アプリやスマホゲームを触るのが好きだった。好きすぎて、ごく簡単なアプリなら自分で作れるようになった。将来のお仕事はプログラミングしかないと、ずっと思ってた。
 だけど、仕事で作るシステムは、自分ひとりで作るアプリとは全然違ってた。手元のパソコンでは動いていたプログラムが、テスト用のサーバに乗せるとエラーになる。何回見直しても、どこがおかしいのか全然わからない。一、二時間ぐらい悩んでも直らなくて、しかたなく先輩に相談に行くと、あっという間に動くようになった。けど後で見てみると、書き変わっていたのはいつも二、三行だった。

「毎回『詰まったらすぐ質問して』って言われるんだけど……質問しても怒られるばっかりで」

 足りなかったのはいつも数行だった。でも、たったそれだけが分からない。何時間も悩んだ後に訊きに行くと、先輩たちは決まって「どこが分からない?」と訊き返してきた。正直に「どこが分からないのか分かりません」と答えると、返ってくる言葉はいつも一緒だった。

(そういうことは、何十分も悩む前に言って。五分考えて分からなかったら、訊きに来て)

 冷たい苦笑いが本当に悔しくて、次からは自分でなんとかするんだって、一生懸命自分で調べて、でもどうにもならなくて、仕事は全然進まなくて……そのうちに、先輩は声をかけてくれなくなった。仕事も取り上げられた。

「プログラムだけは、できると思ってたんだけどね……私にできること、ほんとに、何もなくなっちゃった」

 泣きたいだけ泣いて、泣き疲れて顔を上げると、目の前に蓮司くんの浅黒い顔があった。相変わらずの鋭い目に、正面からじっと見つめられると、なんだか急に恥ずかしくなってきた。

「……ごめんね。取り乱しちゃって」
「飲め」

 蓮司くんが目で示した先では、臙脂色のマグカップが細い湯気を立てていた。白い液面から、ほんのり甘い香りが漂ってくる。

「私、もう注文してたっけ」
「サービスだ。……落ち着くには、ホットミルクがいいだろう」

 口をつけると、こくのある牛乳に上品な甘味が混じっている。たぶん蜂蜜だと思う。やさしい温かさと糖分が、喉と胃袋からじんわり身体に満ちていく。胸の辺りにつかえていたものが、ほんの少し溶けた、感じがする。
 少し温まった息を、ふう、と吐いて、顔を上げる。
 目の前は、いつも通りのアルカナムだった。英国風という触れ込み通り、古びた洋風の椅子やテーブルが並んでいるけれど、アンティークものに詳しくない私には、それが本当に「英国風」なのかよくわからない。フランス風やイタリア風がこっそり混じってても、きっと気付かない。
 ただ、そんな私でも、お店の売りが「挽きたてコーヒー」なのはちょっとおかしいと感じる。英国風喫茶なら、出てくるのは紅茶じゃないんだろうか。フランス語名やイタリア語名のお菓子も普通に出てくるし、ここの「英国風」はだいぶいい加減だと感じる。
 まあ、そんな大雑把さも、私としては嫌いじゃない。ゆるいお店で、ゆるく話を聞いてもらえる――それが、私にとっては一番大事だから。
 会社に捨てられても、両親に馬鹿にされても、この店のふたりだけは私の傍にいてくれる。そんな気が、していた。

「……とりあえず、今は考えるな」

 ぼやけた視界の中、蓮司くんが低い声で言う。

「辞めてきたなら、もう忘れていいはずだ。忘れろ」

 接客業の店員とは思えないくらい、そっけない口ぶりだ。だのに、不思議と落ち着く。「営業感」が、ちっともしないせいかもしれない。
 ふたりはいつでも、私が何を言っても、ちゃんと聞いてくれる。お客さん相手の相槌、という感じじゃなくて、同世代の友達と話をしている感覚に近い。私の言ったことに対して、思ったことを素直に口に出してくれている、と感じる。時には反対の意見をぶつけてくることもあるし、ぞんざいに聞こえたりすることもあるけれど、それも含めて、ここでの話は心地いい。ふたりとも、私が投げた球をきちんと受け止めてくれるから。
 私の話をまともに聞いてくれるのは、ぬいぐるみのうさことミミ吉を別にすれば、ここの店員さんふたり――蓮司くんと壮華くんだけだ。

「考え方を変えてみるのも、ありだと思うよ。今まではクビが怖くて、できなかったこともあると思うんだけど……もう、何も恐れなくていいんだ、って思えば気が楽かも」

 壮華くんが、空になったマグカップを下げつつ言った。そういえば、今日はまだお金を払う注文をしてなかった。

「オーダー、いい? ケーキセット、今日は何があるかな」

 訊けば、壮華くんが陽気に答えてくれる。

「いつものレアチーズケーキとチョコレートケーキと……あと本当は十月からなんだけど、秋限定のモンブラン、こっそりできてるよ。七葉さんならフライングも受け付けちゃう。蓮司兄さんには内緒でね!」
「……丸聞こえだぞ」

 蓮司くんの呆れ声に、壮華くんとふたりで声をあげて笑う。広くはない店の中、内緒話なんてできるわけもないから、これは壮華くん流のわかりやすい冗談だ。先行お披露目の特別待遇感ともあいまって、気遣いが沁みる。

「じゃあせっかくだし、ケーキセットをモンブランで」
「はい、ではご注文を繰り返します。ケーキセットモンブラン、お飲み物はブレンドコーヒー。以上、承りました!」

 言ってないコーヒーが自動で足されてるあたり、常連感があってちょっと気持ちいい。常連なんだから復唱も別にいらないと思うし、この時だけ敬語になる必要もないと思うんだけど、そこは壮華くんのこだわりかもしれない。二人が裏のキッチンへ消え、サイフォンの音がこぽこぽと鳴り出す。
 まだ抱えたままだった鞄を、机の脇の荷物かごに下ろしながら、私は大きく息を吐いた。スマホを見ると、また妹からショートメールが入っていた。

『七葉姉、今日は送別会? そうだったらゆっくりしてきて。でも一言ぐらい返信はください。梢』

 無視するとめんどくさそうだ。短く返す。

『今日は遅くなります。たぶん九時ぐらい。七葉』

 送信ボタンを押しつつ首を振る。今は梢の名前を見たくない。あの子といると、自分の惨めさが際立つばかりだ。
 あの子は甘えるのが上手い。
 明るいし愛嬌があるし、家族にも同級生にも可愛がられてる。すぐに他人をあてにするのに、頼み事を断られてるところはほとんど見ない。皆、梢に頼りにされるのを喜んでるみたいだ……そういう私も、梢がにこにこ笑って「七葉姉!」と寄ってくると、断るに断れないんだけども。
 ショートメールの画面を閉じようとすると、ほぼ同時に妹からの返信が来た。素早すぎる返信は、『楽しんできてね』の一言にケーキの絵文字付き。ほんと、可愛い妹だよ間違いなく。
 絵文字を眺めていると、ちょうど蓮司くんがコーヒーを、壮華くんがモンブラン――本物のケーキを持ってきてくれた。香ばしい匂いを立てるコーヒーの横で、橙色のカップに、パスタみたいな細いクリームがぐるぐる巻いてある。てっぺんには艶やかなシロップ煮の栗が、ちょこんと乗っていた。
 スマホで写真を撮った後、まずはフォークで側面を掬う。口に運ぶと、栗の甘味にほんのり洋酒の香りがついていて、濃厚でとっても美味しい。苦味の強いブレンドコーヒーと交互に口に入れると、感じる甘味がますます深くなって、手が止まらない。どうして甘いものって、苦いものと一緒にすると美味しくなるんだろう。
 あっという間に、外側のマロンクリームも中の生クリームも食べ終えてしまった。栗のシロップ煮だけがひとつ、空になったカップの中に残っている。名残惜しくてフォークを刺せずにいると、蓮司くんが訊いてきた。

「栗は嫌いだったか」
「嫌いならモンブラン頼まないって。……食べちゃうのがもったいなくて」
「七葉さんっていつもそうだよね。ショートケーキの苺も最後まで残してるし」

 壮華くんの言葉に、ちょっと恥ずかしくなる。モンブランの栗、ショートケーキの苺、クリスマスケーキのチョコプレート……食べる踏ん切りがつかなくて、食器を下げる係の壮華くんをいつも待たせてしまう。

「なんだかね、とっておけるなら、とっておきたいなって。……なんで、食べたらなくなっちゃうんだろうね」
「なくなったら、また作るから! 十月の間なら、いつでも食べに来て」
「あー、そうじゃなくてね壮華くん」

 ぽつんと残った栗を見つめながら、溜息をつく。

「大事なものは、置いておきたいんだ。なくなっちゃったら嫌だから……梢が一緒にいると、勝手に持ってかれちゃったりするんだけどね」
「そうなのか?」

 蓮司くんの言葉に、私は大きく頷く。

「残しといた苺、『七葉姉、これ嫌い? だったら食べたげるー』って持っていかれたりね。それで泣いたら、親に『お姉ちゃんなんだから、そんなことで騒がないの』って叱られたり……子供の頃からずっと、そんなんだよ」

 おとなげなくこんな話までするなんて、今日は相当弱ってるな、と自分でも感じる。視線を上に向けると、蓮司くんと壮華くんは、兄弟揃って私を見つめてくれていた。

「大変なんだね、お姉さんって。僕は僕で、愛想のない兄を持って大変だけども!」
「……俺たちは何も取りはしない。好きなだけ、ゆっくりしているといい」

 ふたりの言葉に、すうっと胸の内が軽くなる。
 何も取らない。何も持っていかない。そのままにしておいてくれる。だから、この場所は落ち着くんだと思う。
 微笑む二人を見ていると、なんだか不意に甘いものが欲しくなった。思い切って、シロップ煮の栗にフォークを刺して、口に運ぶ。
 壮華くんの目尻が、幸せそうに下がった。
 栗はこりこりして、糖蜜の甘さが芯まで滲みていて、クリームほどじゃないけど美味しかった。

「おかわりはいいか?」

 蓮司くんが訊いてくる。アルカナムはコーヒーのおかわりが割引になってて、二杯目以降は一杯百五十円で飲める。駅前どころか、住宅街の喫茶店と比べても破格の安さだと思うんだけど、なんでお客が入らないのか本当にわからない。

「そうだね、頼みたいのは山々だけど……今日は、あんまり飲んだら眠れなくなりそう」
「なら、ホットミルクにしてみるか。ジュースもあるが」

 ちょっと考え込む。ああは言ったけど、せっかく蓮司くんのコーヒーが飲める席にいるのに、ミルクやジュースってのも少し味気ない。

「間取って、カフェオレでいいかな。ホットで」

 軽く頷いて、蓮司くんはカウンターの向こうに回る。すかさず、壮華くんが空になった机を拭いてくれた。お礼を言うと、くりくりした目が悪戯っぽく細まった。

「できるまでに、カード引いてみる?」
「引く引く!」

 アルカナム名物、壮華くんのタロット占いだ。一応、単独で頼むと一回五百円ってことになってるんだけど、一品以上注文したらサービスで無料になるから、お金を払った記憶はない。
 きれいにした机の上に、壮華くんが黒いベルベットの布を広げて、いつもの使い込まれたカードデッキを裏向きに置いた。ふと、不安になってくる。

「今のこの状況で、『死神』とか出たら嫌だなあ」

 壮華くんは、やさしく笑いながら首を横に振った。

「そうでもないかな。今日『死神』が出るとしたら、それは吉兆だと思うよ」
「え、そうなの?」
「『死神』は『ひとつのことが終わって、新しいことが始まる』って意味だからね。今出てくるなら、悪い流れを断ち切って新しい方に行ける証だと思うよ。というより、タロットは吉凶占いじゃないから、悪いカードってものはないよ」

 腑に落ちきらないけど、人好きのする笑顔で明るく説明してもらうと、そんな気もしてくる。壮華くんは黒布の上で、手早くカードを混ぜてまとめ直した。

「さ、一枚引いてみて。いつもどおり、上下は逆にしないでね」

 横一列に広げられた七十八枚の中から、真ん中少し右あたりの一枚を引き出して、表に返す。

「……あ」

 思わず、声が出た。
 ベッドから身を起こした誰かが、顔を覆って泣いている。真っ黒な背景に、剣が九本浮かんでいる。絵柄が、あからさまに鬱々しい。

「ソード九の正位置だね。深い嘆きとか、夜も眠れないほどの心の痛みとか……『完全な悲しみのカード』って言われてるね」
「それ、ものすごく悪いんじゃない……?」
「本当にそうかな?」

 壮華くんは、私の肩をやさしく撫でながら目を細めた。

「七葉さん、これまですごくがんばってたじゃない。お仕事ちゃんとしなきゃ、きちんとしなきゃって。きっとその間、悲しいとか辛いとかは考えないようにしてたと思うんだ」
「そうかも……しれないけど」

 確かに言う通りかもしれないけど、なんだかやっぱり釈然としない。壮華くんは続ける。

「でも、もうその必要はないから。一度、『ちゃんと悲しんでおく』必要があるのかもしれないよ。その時は僕たちが――あっ」

 気がつくと、カフェオレのマグをお盆に乗せた蓮司くんが横に立っていた。カードとクロスをしまおうとする白い手を、蓮司くんはじろりと見た。

「今回のカードはこれか」
「そうだね、ソードの九。七葉さん、本当に傷ついてるんだと思うよ。お仕事の――」
「……いや」

 蓮司くんが、急に険しい顔になった。声色が、急に険を含みはじめた。

「これは、今までのことじゃない……これからだ」
「え?」

 私と壮華くんが、同時に蓮司くんの顔を見た。細めた目が、剣の並ぶカードを、焼き切れそうなくらいの眼光でにらみつけている。

「七葉、気をつけろ。なにかが起きる」
「蓮司くん……タロット読めたの?」
「いや、兄さんは詳しい意味までは知らないはず。けど」

 壮華くんまで、つられて声が低くなっている。

「これは、本当に気をつけた方がいい。兄さんが口を挟んでくるときは、確かにいつも……なにかあるから」
「え、ちょっと」

 二人して脅してくるとかひどい――そう言おうとした時、スマホが震えた。ショートメールの着信通知だった。

『七葉姉 今、パパとママとお部屋掃除してます。九時に帰ってくる前には綺麗にしときますね。梢』

 顔から血の気が引いていくのが、自分でわかった。鞄を抱えて、私は席を立った。

「どうした」
「ごめん、ちょっと急ぎの用事ができちゃって……お会計、これで」

 お金を渡すと、蓮司くんは顔を曇らせた。私を帰したくない……のだろうか。

「……くれぐれも気をつけろよ。月が翳る夜の一人歩きは」
「分かった。……ありがと」

 蓮司くんにそれしか返せないまま、私は喫茶アルカナムを後にした。

 私の住んでいるマンションは、古橋駅から歩いて十分ほどの所にある。アルカナムを出て中央通りに戻って、道なりに進んでいくつも信号を抜ければ、雑居ビルの群れがだんだんマンションに替わっていく。嫌な予感に追い立てられるように、私は交差点を曲がった。
 少し進むと、煉瓦色の外壁が見えてくる。ここ「コーポ古橋」の三階、三三七号室が私の部屋だ。
 エレベーターを出ると、三三七号室から出てきた人影と鉢合わせた。シンプルなグレーのポロシャツに、細いジーンズをはいたセミロングヘアの女子は、満面の笑みで私に話しかけてきた。

「あ、七葉姉おかえり! 早かったね」

 妹の梢だ。いつもの無邪気な笑顔で、目を細めて話しかけられると、さっきまでの焦りとイライラが半分くらい溶けて流れる気がする……けど半分になっても、元が多くて強い。私は梢をにらみつけた。

「梢、退職の話、父さんたちに言った!?」
「ああごめん。黙ってようと思ってたんだけど、残業多いの気にしてたからさ……どうせ今月で終わりだから、って、ぽろっと」
「ぽろっと、で済む話じゃない!」
「でもどうせバレる話でしょ? 多少早くなったところで――」

 笑ったままの梢の後ろで、部屋の扉が開いた。玄関には、古橋市指定のゴミ袋がぎゅうぎゅうに積まれていて、触ったら崩れてきそうだ。半透明の袋から透けて見える中身に、私は驚いて声を上げた。

「ちょっと、これ捨てたの!?」
「これってどれ」
「全部! 全部だけど……たとえばこれとか」

 私は、「古橋市指定」の文字の隙間に見えるチラシを指差した。駅前のハンバーガーショップのキャンペーン広告だった。

「これ、クーポンついてたのに……週末ぐらいに食べに行くつもりで、とってあったのに」
「期限、今日だったわよ。ほんといつも、使わないクーポンばっかり溜め込んで」

 母さんの声と共に、目の前にまた、新しいゴミ袋がどさりと置かれた。中身はだいたい布系で……ビニール越しに、ぐしゃぐしゃに折られた兎の耳が、ある。私の大事なぬいぐるみ――うさことミミ吉だった。
 絡まるように詰め込まれた、白い耳と茶色の耳。袋の口を開けて助け出そうとすると、急に、手の甲に痛みが走った。

「なにやってる」

 冷ややかな父さんの声が飛んでくる。私は、玄関の奥を全力でにらんだ。

「勝手に入らないでって、いつも言ってるじゃない!」
「そういうことは、一人で片付けできるようになってから言いなさい」

 露骨な溜息を混ぜながら、母さんが言ってくる。
 奥に見える私の部屋は、ぐちゃぐちゃになっていた。それに、とっておいた物がたくさんなくなってる。あとで読もうと思っていた雑誌も、再利用するつもりで綺麗に剥がした包装紙やリボンも、寄付に持って行くつもりだった古切手も、全部なくなっている。
 仕分けして整理できないのは、確かに私が悪いかもしれない。でも、全部いっぺんに捨てるのはひどいと思う。

「七葉、あなたほんと、どうしてこんな子に育ったのかしらね。放っとくとすぐ、部屋をゴミだらけにしちゃって」
「ゴミじゃない!」

 うさことミミ吉の袋だけでも取ろうとすると、また父さんに手を叩かれた。
 思い出す。あの日も、こんな風に捨てられたんだ。「最初の」うさことミミ吉も。


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