真の善って何?

今日は善と偽善の違いを考えていたら本当の善が分からなくなったので、それを書いていきたいと思います。

前提:偽善とは?

まず偽善について考えていきたいと思います。

検索したところ

うわべだけを飾って正しいように、あるいは善人のように見せかけること。また、その行為。

とあります。

要するに真の自分の思惑を隠して、他人に対して良い人であるように振る舞って利益や名声を得ようとする考え、でしょうかね。

とても分かりやすいし、メリットもはっきりしている以上は、自分の欲に忠実で正直とも言えます。

コトバンクより引用

ここではわかりやすいように、「目的が真の善意か、俗物的な別の思惑が存在するか」で区別することにします。

また、ここで対義語として偽悪が紹介されていますが、「わざと悪を装うこと」とされていて、誤用の方の確信犯に近い意味かなと思います。
善↔︎偽善の軸には直接関係は無いと判断したのでここを掘り下げるのはやめます。

偽善はグラデーションになっている

話を戻して、偽善の例を挙げていきたいと思います。

真っ先に思い浮かぶのはやはり24時間テレビとかでしょうか。
愛は地球を救うだの、障碍のある人をフューチャーして御涙頂戴だの、まさに偽善そのものです。

しかし、偽善と批判することは簡単ですが、「偽善の何が悪いのだ、誰が損をしているのだ」と返されると、返答に困ります。

アレを見て感動するオメデタイ人こそいれど、「愛にはなんの力も無いだろ」と本気で考えるようになったり、障碍者に対する差別偏見をますます確固たるものにしたりする人はいないように思えます。まあ、中にはいるかもしれませんが。

要するに、『例え思惑が別に存在したとしても、綺麗事を発信している以上それに感化される人間が存在しないと考えることはできず、正の効果が微々たるものであっても負の効果が生まれていない以上はそれを批判すべきではない』という意見は説得力があるように思えます。

そう考えると、「やらない善よりやる偽善」という有名な言葉は''偽善を正当化する意味では''的を射ています。
この言葉に関しては後で考察します。

話を戻すと、24時間テレビはその目的の規模が大きすぎて(愛は地球を救う)胡散臭く思われ、さらにそれで収益を得ているという露骨さが批判されているだけです。

しかし、誰も損はしていません。
上記の通り、負の影響は限りなく小さいのです。

このように、24時間テレビは偽善の例として非常にわかりやすく、また批判されるポイントも単純明快です。

では24時間テレビのような露骨な偽善ではなく、もっと分かりにくい偽善はどうでしょうか。

例えば、自分の欲しい授業の過去問を持っている友達が何かで困っていたら、助ける対価として過去問を期待するのは当然です。

これは定義に当てはめれば、目的が真なる善ではなく、俗物的な「過去問」ですので、偽善に当たります。
しかし、向こうからしたら友達が助けてくれて、その対価として何かを差し出すのは当然と思い、そこに偽善だと邪推する気持ちは生まれません。

この場合、過去問のために友達を助けた「自分」は批判されるべきなのでしょうか?私はそうは思いません。

では、この場合はどうでしょうか。

好きな異性が困っていたから、問題を解決してあげた。

これも、定義に当てはめれば目的が好感度上げですので、真の善意とは言えません。なので偽善です。
しかし、向こうは問題が解決して、こちらも「好きな子の役に立てた」と満足します。

この場合も批判されるべきではないですよね。目的が下世話なだけで、結果で見れば誰も損はしていません。

このように偽善とは、そもそも全般的に負の影響が限りなく小さく、またその露骨さの程度もグラデーションであり、偽善全てが批判の対象となるわけでは無いとわかります。

しかし、ここまでグラデーションして例を挙げると、一つの壁にぶつかります。

真の善意って何?

先ほど3つの例を挙げて、それぞれ目的が真の善意ではないから偽善と切り捨てましたが、それでは真の善意とは何でしょうか?

コトバンクより引用

とても抽象的ですね。そりゃそうだけどさ…となります。
1の「良い心」というのは極めて主観的なので、ここでは論じないことにします。

ただ、2の「他人のためを思う」という点は引っかかりますね。実際、偽善の3例は全て「自分のための」具体的な利益が存在しています。

しかし、ここでもまたグラデーションが発生します。

善意のグラデーション

他人のためを思うことにグラデーションなんかあるのか?と思うかもしれませんが、「他人のため」の行動って、結局突き詰めていくと自分の利益に繋がることが往々にしてあると思うんですよね。

そもそも偽善の例の3つのうち、過去問の例と好きな人の例はどちらも相手にとっての具体的利益も存在しますし、「他人のため」の行動であるとも解釈できます。

また、本来その人のためになるように行動したことが、回り回って自分の利益になることもあります。

例えば、教室で誰かが具合悪そうにしているのを介抱するのも、周りから善人だと思われることに繋がります。

その場では具合が悪そうな友人を介抱しようとしただけだったとしても、やはり皆の見ている前でそういったことをするのは、周りの目を気にせざるを得ません。

少しばかり「カッコつけたい」という気持ちが心の中にあったとしたら、その時点で偽善になってしまうのでしょうか。

「情けは人の為ならず」という言葉があるように、情けをかけることは多少なりとも自分の利益に繋がるのは明白です。

先ほどは周りの目を例に挙げましたが、そもそも介抱してあげた友人からの好感度もアップするのでそいつに恩を売った形にもなるわけですね。

そのようにどんどんグラデーションとして考えていくと、1%も偽善が存在しない、純度100%のピュアピュアアルティメット善意なんて存在するのか?と思ってしまうわけです。

「やらない善よりやる偽善」と言うけれど、そもそも「やらない善」って何だよ

先ほども挙げた「やらない善よりやる偽善」という言葉に関して考察します。

一見すると、この言葉は偽善と善を対比しているように思えますよね。

ここで本当に対比構造が生じているなら、偽善について分析すれば逆説的に真の善意に辿り着けるかのように思えます。
グダグダと偽善について考察してきた私なら、イケるかもしれません。

しかし、実際は全くそんなことないのです。

対比どころか、この言葉は一方的に偽善の正当性をアピールしているだけなのです。

というのも、そもそもこの言葉の中では、偽善と対比されるべき肝心の「真の善」が実行に移されていないからです。

1番理想とされていて、かつ1番我々が何なのか知りたい真の善意が、この言葉の中でさえも実行に移されておらず現実の形となっていない以上、それはあくまで理想のままに過ぎず、空想上の動物と同じです。

動物を飼おうとするとき、犬を飼うか猫を飼うか検討する人はいても、犬を飼うかペガサスを飼うか検討する人なんていないですよね。
だってペガサスなんていないんだもん。

犬vs猫なら、「犬はこういう性質があって、猫はこういう性質だ。だから私の性格的には犬の方が合ってるかな」というように客観的に判断したり、または片方から片方を対比構造的に判断することも可能です。

しかし、いないものといるものを比べることはできません。
そこにはなんの判断材料も対比構造もありません。
当たり前のことです。

このように、これは「やる偽善」の正当性を訴える文句であり、「やらない善」という空想上のサンドバッグを引き合いに出しているだけです。

空想上のサンドバッグである以上、そこに真の善は存在しないので、やはりこの言葉に関して考察しても真の善には到達し得ないのです。

真の善なんて存在しなくても良いのでは?

やはり真の善とは空想上の存在に過ぎず、むしろ存在しなくて良いような気もします。

誰しも多少なりとも行動する前に自分の利益を考えるのは当たり前です。
全人類に共通する善なんてものがあったとして、皆が自分よりも他人のために動いてしまったら、それこそ人間は絶滅してしまうのでは。

他人に優しくするのは自分からしても気持ちが良いですし、側から見ても良いことです。
そして、そのことによる自分への見返りを多少なりとも期待するくらいは許されても良いと思います。

自己中と思われない程度に自己中でいるのが1番賢いんですかね。難しい話ですが。

つらつらと書いてきましたが、長くなったのでそろそろ〆ます。

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