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『TS百合』という言葉に何も言わなくなっていく百合好きたち――きっと10年後も同じ話をしている私たちへ

この記事を読むにあたって2つ前置きをさせてほしい。

1つは、筆者が10年以上百合好きをやっている者だということ。別の記事でも書いたが、2007年のアニメ『らき☆すた』から百合及び二次元コンテンツに入り、そこから今に至るまで百合一筋でやってきている。よって百合以外のことは全く分からないし、百合以外のことに勝手な言及もしないように心がけている。Twitterも2010年から始めており、10年以上百合をとりまく環境の変遷を限定的な範囲ではあるが見続けてきた。そんなそこそこ長い百合のオタクだということだ。(もちろん、それに対してどうということもない。ただ年数が経っているというだけの話だ)

もう1つは、この記事が何かを主張したり、正しさを説いたり、何かを変えたいと思って書かれているものではないということ。また、いわゆる「お気持ち」のような、感情の発露というレベルのものでもないし、ましてや議論がしたいなどとは間違っても思っていない。そういうのは本当にどうでもいいし、ほとんど無意味であるという個人的な信条を持っている。

この記事は、一人の人間が、その狭い範囲ながらそれなりの年数見続けてきた自ジャンルを取り巻く流れに対して、何度目かの既視感を覚え、もはやそれについて年々感じるところが薄くなってきていることに対して、少しの悲しさや、きっとこの先にも同じ――ただしそのときはもっと空虚になっているであろう――気持ちになることへの侘しさを感じ、そんな未来の自分と、もしかすると自分と同じような気持ちになっているかもしれない誰かのために、この2020年6月という時点に残しておく単なる記録だ。

未来の自分や誰かがこの記事を見返すときは必ず来るだろう。そんなとき、古い写真を見返すときのような、懐かしく、少し感傷的な想いになればいいのだと思う。


百合は面倒な話題が多い

百合以外のことは知らないので他ジャンルと比較しては語れないが、百合はとにかく面倒な――SNSで話題に出せば紛糾しがちな話題が多い。

例えば『百合の定義』はその代表的なものにあたる。

え?女性同士の恋愛ジャンルでは?と、そこまで知らない方が見れば思うだろう。もう、その時点で深みに嵌っているのだが、ここについては本記事の内容からは外れるため割愛する。その他、『百合に男は要るか要らないか』『百合における受け攻めの概念及び前後表記』などもそれに類する話題だ。見る人が見たらお題目だけでその面倒くささを想起して辟易するだろう。

※尚、そのうちの一つである『百合とレズの違い』については筆者がYouTubeに投稿している動画内で解説しているためよければ参照されたい。体の良い宣伝である。

なぜ百合においてそのような話題が多いかといえば、百合好きの百合であることへのこだわりによるものが大きいと筆者は考えている。

これはどういうことかというと、百合は何かと男性の侵食を受けがちなジャンルであったことが背景の一つにある。『百合に挟まる男』といった言葉を見たことがある人も多いと思うが、そういった言葉に代表されるように、「女性同士の関係性に男性が介入してくる」という事象は今でも通用する概念として存在している。

これは私の見てきた範囲で言えば、「始めは百合っぽい雰囲気を醸し出していた作品が、途中で男性キャラクターが登場、もしくは女性キャラクターとの関係性を構築し始め、最後のほうには男女モノっぽい感じになってしまう」という、古い百合好きなら必ず通ってきた例が源流の一つであると考えられる。これは百合というジャンルが今ほど大きくなかったころ、編集部の意向なのか作者の意向なのかは知らないが、百合路線では人気が出なかった作品において、テコ入れのためにこういった措置が取られることがあったのだ。(例は上げればキリがないが、女性二人がメインだった前作から男性メインキャラを追加してリメイクされ大幅に続刊した『EX-VITA』→『EX-ARM』の変化などは分かりやすい) また、成人向け作品におけるその手のジャンル(説明はしないがわかるだろう)も源流の一つだろう。

今でこそ百合ジャンルは出版社の「百合は売れない」(これは各方面から話を聞く限り最近まで――もしくは今でも根強く確実に存在している)という固定観念を少なからず脱し、毎月のように多数の百合系作品に触れることが出来るようになったが、冬の時代に上記のような経験をしてきた百合好きにおいては、「純粋な――"女性同士の関係だけで"完結する百合」を強く求める傾向にある。

百合を期待していた作品において、いつ百合ではなくなってしまうか分からない――もちろん独りよがりな願いであることも少なくはなかっただろうが、とにかく絶対数が少なかった百合ジャンルにおいて、常にそんな不安と隣り合わせに生きてきた百合好きが、「女性同士であること」、「男性という不安要素を極力排すること」にこだわりを持つようになることは、ロジックとしては理解しやすいのではないだろうか。

これらの流れを理解すると、自ずと『百合の定義』『百合に男は要不要』などの議論が紛糾しがちであることにも納得がいくだろう。

そして、今回取り扱う『TS百合』も、もちろんそれに類する話題の一つである。

※注意:これまでもこれより先も筆者がこれまでの経験の中で百合ジャンルにおいて恐らく少なくない範囲を占めるのであろうと感じた認識や感覚を百合好きの一般的な見解のように書いているが、もちろんそうでない方もいることは承知だ。全ての人が同じ意見であることはありえないこと、この記事はあくまで一個人が己の視点で書いていることを考慮願う。反対意見があれば筆者マシュマロないしは何かしらの記事にて発信されたい


『TS百合』は百合なのか

まず、この記事が書かれたきっかけだが、2020年6月15日に発売された週刊少年ジャンプ2020年28号において新連載となった矢吹健太朗氏の作品の中で、男性キャラクターの女体化が描かれたことが発端となり、Twitterのトレンドに『TS百合』が載り、それに関する話題が私のTLで多く見られたことによる。尚、この作品については私はTLに流れてきた数コマの画像しか見ていないため言及しない。今回の本題はそこではない。

さてこの『TS百合』をTwitterで検索してみると、トレンドに載っただけあってさまざまなツイートを目にすることが出来る。その中でも「話題のツイート」として上位に来ているのは『百合はTS百合とは違う』といった類の、定義論に基づくツイートである。

もう少し深堀りしていくと、「百合とTS百合は違うんじゃボケ💢」といったような怒りを表明するものや、「百合とTS百合は違うけど、お互いのジャンルを尊重して住み分けよう」といった宥めるタイプのもの、「このジャンルは『とせがら(TSGL)』という言葉があるのでそれを使ってください!」といった注意喚起をするものなど、さまざまな想いが込められたツイートが見て取れる。とはいえ言っていることの根本は同じで、大枠『百合とTS百合は別もの』というイメージが共有されていることがわかる。

こういったツイートが上位に来ていることから、この「別もの」ロジックについては恐らくそれなりに理解・浸透されうるものであろうと考えられる。女性同士の関係を描いた『百合』というジャンルと、精神的・肉体的・もしくはその両方の性転換を伴う『TS』というジャンルでは、そもそもの構造が違うのだ。

とはいえ、「でも性転換した結果女性になっていれば、それは百合では?」という考えの人がいることも理解は出来るし、事実、Twitterでもそのように主張している方を見かけることが出来る。

恐らくそういった方々は、上記で述べたような、百合好きのこだわりを理解・共有していない。百合好きの視点で言えば、やはり「性転換といった要素=少なからず男性の要素を伴うもの」である『TS百合』については『百合』としては受け入れがたく、TLの百合好きを見ていても、別ジャンルとして扱っている人がほとんど――というか全員である。

※尚、2008年に百合姫コミックスより出版された金田一蓮十郎氏の『マーメイドライン』において、「MtF(出生時に男性と割り当てられたが性自認が女性)かつ恋愛対象も女性」の方と女性の関係を描いた短編が存在しているが、それをもってそういった作品及び関係性を『百合』として扱うべきだとするにはあまりにも特殊な例である。(ただし筆者含め百合好きにも評価の高い素晴らしい一編であることは補足したい)

そして何より、百合好きはこの『TS百合』という言葉自体にも複雑な想いを抱いている。


『TS百合』という言葉について

百合好きにとって『男→女のTS要素を伴う関係性』とは、『百合』とは非なるものであり、別ものという理解が主流である。そんなジャンルが『百合』という言葉を携えていることに、拭いきれない違和感を覚えることは、感覚としては理解しやすいだろう。

突然だがみなさんは「ティラピア」という魚をご存知だろうか。

スズキ目カワスズメ科に属する外来種の魚で、かつては「いずみ鯛」や「ちか鯛」などとして鯛のように売られていたが、鯛の養殖の普及や食品表示法の施行に伴いほぼ流通しなくなった魚である。

スズキ目であるこの魚は当然鯛ではない。しかし、外見が近しく、そちらのほうが通りがいいからという理由で「鯛」の名前を冠して世間に浸透していたのだ。

『TS百合』という言葉はこの「ティラピア」が「鯛」として流通していた事象と似た構造ではないだろうか。

この世に熱狂的な鯛ファンがどの程度いて、同じような違和感を持っていたかはわからないが、仮に私が純粋な鯛以外は鯛と認めない鯛ファンだったとしたら、「ティラピア」という全く別の魚が「鯛」の一種のように売られ、世間に浸透していた様は、もしかすると受け入れがたい状態になっていたかもしれない。

しかしさほど魚にこだわりのない人はこう言うだろう。「ティラピアでも美味しいし見た目も鯛っぽいからいいじゃん」と。あげくの果てに「鯛ファンはこれだからうるさいんだよ」「鯛オタクは鯛だけ食ってろよ」などと心無い言葉が続くこともある。これはやってられない。しかしながら、これはどちらが正しいなどということではなく、単にこだわりの有無の問題と言えるのだろう。

しかし、ティラピアの場合、前述のように食品表示法の施行により、「鯛」という表示はできなくなった。そして「ティラピア」というなんだかよく分からない名前のままでは売れなくなり、流通から姿を消したのだ。(とはいえ真名を併記すれば鯛表記は出来るしイオンとかでも売ってるらしいが恐らく多くの人が知らない魚だろう)

一方で、『TS百合』は同じようにはならない。通りが良く理解しやすいという、恐らくそういった理由で基本的には別である2つのジャンル名が一緒になり、それを取り仕切る機関や法律もないので、いつしか取り返しがつかないほど浸透してしまった。そんな言葉である。(『とせがら』表記の推奨も長らく見るが、残念ながらあまり根付いてはいない印象だ)


僕らは『TS百合』に何も言わなくなっていく

さて、そのような状況の中で、百合好きたちはどうしているだろうか?

前述のように、百合というジャンルは面倒な話題が多い。ということは、百合についてこだわりを持つ百合好きたちは、年がら年中上記のような面倒な話題について論議しており、常に論争が耐えないような環境なのだろうか?筆者のTLでも、『TS百合』なんて言葉は絶対認めない!といったようなツイートが多数見られたのだろうか?

結論から言うと、答えは"No"だ。筆者のTLは自分と同じかそれ以上の、比較的歴の長い百合好きの割合が多いのだが、むしろ長くジャンルに居る百合好きほど、『TS百合』という言葉についての言及をしていない傾向にあり、人によっては「TS百合についてのコメントはありません」などと、「言及しない(スタンスである)」ことをわざわざ示す人もいる。

これは何故か。理由を2つ上げる。

1つは、この手の"面倒な"論争はインターネット上で幾度となく発生してきたこと。これは「幾度となく」という部分が既に物語っているが、終わりなき結論の出ない論争が繰り返されてきたということでもある。

これは百合に限った話ではなく、インターネット上の論争の多くはこのパターンだろう。何故かといえばこれも2つ大きな理由があり、1つは「インターネットにはあまりにも多種多様な人の意見がリアルタイムに飛び交っていること」、そして1つは「誰も取りまとめてジャッジする人がいないこと」である。

これが義務教育の学級会であれば、決まった人数の意見が簡潔かつ公平に黒板にまとめられ、授業の時間の終わりには多数決か話し合いで結論を出すというプロセスが踏まれるのだが、インターネットの場合、議論の参加人数は山程いる上に途中で増えたり減ったりすることもあるし、誰も適切に意見をまとめ(られ)ないし、議論の終わりもなくそして結論も出ない。ただ巨大なエネルギーが発生していつの間にか収束していくという自然災害のような性質がインターネットの議論の本質である。最後に残るのは荒れ果てた大地であり、後には何も実のあるものは残らない。そして忘れたころに同じことが繰り返されていくのだ。

誰しもこういったインターネットの議論に参加してみたり、意見を発信したりした経験はあるのではないだろうか。筆者もTwitterを始めたときは、自分以外の百合好きがこんなに大勢もいるのかと感動したものである。もちろん自分の友人や、匿名掲示板・mixiなどのSNSで百合好きと百合に関する話をしたことはあったが、何百、何千という単位で目にすることはなかった。そこには自分では考えたこともないような意見もあり、参考になったり、勉強になったり、ときには意見を違わせたりすることもあった。ときどき大きな流れがあり、観測範囲が荒れることもあった。そんな経験を何度も、何年もしていくうちに、なんとなくこんな風に思うようになっていった。

「インターネットで議論しても無意味じゃね?」

理由は前述の通り、何も生まないし、何も変わらないからである。延々堂々巡りなのだ。

そしてこの感覚は長くネットをやっているものであればある程度持ち合わせているもののように思う。みんな、何度も繰り返されて過ぎ去っていく光景に疲れているのだ。ループものの作品でループ当事者がときおり悟りの域に達していることも頷ける。終わりの無い事柄にエネルギーを使うことほど無意味で疲れることは無い。これが百合好きの一定層が『TS百合』に何も言わなくなっていく2つ目の理由である。

※追記:上記の「ネット議論に意味はない」というのは限られた議題かつ私の個人的な想い(諦観)によるところが大きいため、全てのネット議論に意味がないということはもちろんなく、もう少し違う言い方があったかと思う。しかしここではどちらかというと、そういう風に思うようになってしまった自分自身に対する無念さを表している


きっと10年後も同じ話をしている私たちへ

もちろん百合好きの全ての人が言葉を発していないわけではない。むしろ、「話題のツイート」に上がっているように、大勢に拡散されるような情報を発信する百合好きもたくさんいる。それによってそういった意見や考えがあることに気づく人も大勢いるだろう。意見を発信することは、全くの無意味ではなく、むしろ立派な行為である。

ただし、「『意見を発しない』という意見」が成り立つことも見落としてはならない。それらを選択しているTLの百合好きを見て、私はきっと自分と同じ気持ちを少なからず共有しているのであろうことに安堵し、そして同時に少し悲しい気持ちにもなる。そこには確かに「諦め」が存在しているからだ。

だから私たちは『TS百合』について何も言わない。だけど、「何も言わない」ということを選択している。そして、もっと楽しいこと――今ハマっているジャンルのこと、カップリングのことについて話していく。もしかすると、大人になるということはこういうことなのかもしれない。少しの感傷を代償に、賢く穏やかに生きる道を選ぶこと。この先の百合好きの人生も、きっとこういうことの繰り返しだろう。だけど悲しむ必要はない。あなたの周りには多くの仲間がいるし、今日も楽しい話題が飛び交っている。今は何のジャンルにハマっているのだろう?そんな想像を巡らせながら、2020年6月を過ごしている。


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