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『戦争の古代中国史』を読みながら考えていたこと

戦車と殷周革命

 古代中国では、戦闘用の馬車を「戦車」と呼ぶ。
 三人乗りで、中央に馭者、右側に戈や矛を持つ戦士、左側に弓を持つ兵員が搭乗し、弓矢を持つ者が車の主人とされている。
 馬車は、オリエントから中央アジアを経て、中国に伝わったとされる。
 そして、中国に導入されたのは二輪車である。

 ここでいくつかの学説を挙げる。
・戦車は、殷代には貴重品で、広くは用いられておらず、戦力としては歩兵が主役であった。
・馬そのものが、本格的に使用されたのは殷代後期であった。
・殷王朝が主体となって草原地帯から輸入し、馬の管理や飼育を国家が独占していた。
・周が、草原地帯に近い西北地方に拠点を置いていたことにより、早い段階から戦車を用いた車戦に習熟しており、それが殷を破った勝因の一つである。
 このあたりをまとめていくと、殷周革命の原因の一つは、「戦車」であるともいえる。

 ちなみに、原宗子さんは、地球寒冷化による自然環境の変化、を殷周革命の原因の一つとして述べている(『環境から解く古代中国』)。

 殷周革命の原因が、殷王の「政治的な失敗」「徳を失った」ことだったとして、
「その一つひとつは何だったの?」
と言われると複合的な要因が絡み合っている。
 いつの時代も、政治というのは複合的な要因が絡み合っているのだが、その一つひとつをほどいてみて、
「何が原因だったのか?」
というのを知るのも、歴史学の楽しさである。

大都無城説

 黄河中下流域で城壁に囲まれた集落が出現するのは、竜山文化期に入ってからである。
 「版築」と呼ばれる技法で、二枚の板を立て、その間に土を突き固めて作られる。
 長江流域では、黄河流域よりもさかのぼることから、黄河流域よりも長江流域のほうが速く戦争が頻発したのではないか? という説がある。
 中国の都城は、一般的に宮殿地区を取り囲む内城(小城)と、居住区を含めた都市全体を取り囲む外郭(外城、大城)の二つの城壁からなるとされている。

 ところで、今のところ、殷墟に城壁が確認されていない。
 殷墟のみならず、殷以前の二里頭遺跡、西周の豊鎬と洛邑、殷の小双橋遺跡でも城壁が確認されていない。
 このことから、「殷墟は都城ではなかったのではないか?」という学説もあるが、逆に「大都無城」説も唱えられている。
 周囲を取り囲む各氏族の「邑」が防衛の役割を担っていた、という考えだ。

 考えてみれば、古代ローマ帝国も、勢力圏が拡大し、都市ローマが「ローマの首都」から「世界の首都」になると、城壁を取り壊している。
 城壁は、防衛の役に立つが、経済活動にとっては邪魔だったのかな? と考えると、洋の東西は問わないのであろう。

スポーツマンシップにのっとった戦争

 上海博物館所蔵の戦国竹簡の中に、『曹沫之陳』というものがある。
 曹沫は、魯の荘公に仕えた人物で、斉・桓公を匕首で脅して奪われた領土を取り戻した、と『史記』刺客列伝に書かれている。
 『曹沫の陳』に書かれた戦法も戦争観も、戦国時代よりも古い時期の発想が見える。
 そこには、奇襲による戦術や奇襲に備える用心もない。
 戦争に、”スポーツマンシップ”というと妙な感覚だが、古代から春秋時代の軍礼が”スポーツマンシップにのっとった戦争”だった。
 その曹沫は魯・荘公十年、長勺で斉と戦っている。
 そこでは、
「戦には気力が肝要です。一の太鼓で奮い立つが、二鼓で気力が衰え、三鼓で気力が尽き果てます」
といって、斉軍が三度目の太鼓・三鼓を打ってから、魯軍は一度目の太鼓で迎え撃ち斉軍を撃退している。
 相手に攻めるだけ攻めさせておき、カウンターパンチを喰らわせるようなもの、と考えると、軍事行動というよりもスポーツという感覚のほうが近い。

 紀元前638年、「泓」で宋と楚が戦う。
 宋・襄公は、
・楚軍が泓水を渡りきる前に攻撃を仕掛けるという進言を退け
・楚軍が泓水を渡り切った後、陣形が乱れているところに攻撃をかけるという進言も退け
結局、楚軍が陣形を整えるのを待ってから、攻撃を仕掛け、そして、大敗を喫する。
 『左伝』僖公22年では「君は未だ戦いを知らず」と呆れられることになる。
 ここから、「宋襄の仁」という故事成語が生まれる。
 無用の情けをかけると、ひどい目に遭う、という意味だ。
 しかし、同じ『春秋』の”伝”である『公羊伝』僖公22年では、「大事に臨みて大礼を忘れず」と肯定的な評価を下している。
 同じ『春秋』の”伝”でも、『公羊伝』『左伝』『穀梁伝』で解釈が違うのだが、こんなところでも解釈に差がある。

 ”スポーツマンシップにのっとった戦争”というとなんだが妙だが、当時の中国には、そんな戦争観があったことを示している。


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