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授業


授業、あんまり楽しい思い出が多い人は少ないのではないだろうか。

しかし、人は時として、授業を欲する時がある。と思う。


授業って苦痛。先生の話がつまらないとなると余計。ゆーたら、お経聞きながら、ずっと硬い椅子に座っていて、飲み物も食べ物も禁止。飴とかガムでさえもビクビクしながら食べる。大体、クッソ暑いかクッソ寒いかクッソ雨。隣の机とか、他の奴の影響をめっちゃ受ける。環境が良いとは、、、あんまり言えないのでは。と思っていた記憶がある。

勉強ができなければ尚更、もっと授業が嫌いになる。もっと自分に分かるように話してくれよという願望から抱き始め、それも叶わないとなると早く終われとしか思えなくなる。放棄して屋上に行きたくなる気持ちも分からない訳がない。


一方で、大人になってもたまに誰も何も教えてくれないことを嘆いてしまう瞬間がある。これは知らなかった。誰か言ってくれたらよかったのに。教えてくれてないものはできない。こんな理由を並べてしまう。これは全て、誰かが分かりやすく授業してくれればわかるのにという感覚に起因する。と思う。あれだけ嫌だった授業を求めてしまっている。時もある。

求めているというか、あって当たり前のものになってしまっているということかな。自分が何かするときは、それについて教授されてからでないとやれないものと刷り込まれているのかもしれない。


答えが出るのが学校の勉強、答えが出ないのが社会の勉強。だなんてよく聞いたけど、教えてくれてから答えを出すのが学校、教えてくれないし答えもないのが社会。って感じに補足できるだろうか。

まぁわからないから誰も教えられなかったり、そういう問題に取り組んでいるから誰かに教えている暇がないのか。


最近流行ってるコンサルタントって職業は、学校でいう先生的なことなのか。教えを請いたくなっちゃってる、言うたら学生の頃の刷り込みをひきづっている人が求めた形なのかもしれない。まぁ人は皆平等であり、師であるっていう考えは否定する気はないですよ。詳しい人には聞いたらいと思うし。道とかもそうでしょ?



授業を始めます。の時の礼は、きっと大人になると深く深くなっていく。

授業って受けられるの当たり前じゃないんだな。



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