#26 ネット以外で調べる手段

現在では、知らないことがあれば手元のスマホやパソコンで検索することで簡単に情報を得ることができる。便利だからこそ調べ物は圧倒的にネット検索に頼るが、数十年前、そこまでネットが普及していなかった時代にはどの手段を使って調べ物をしていたのだろうかと疑問に思った。

考えられる手段を挙げると

・本(辞書、規準の本、初学者向けの本、専門書など)
・漫画
・新聞
・雑誌
・CD
・DVD(映画)
・展示会
・実寸
・直接話を伺う
・歴史的な文献
・パンフレット

このようなかんじである。

ただ、高頻度で調べ物の手段になるのは圧倒的に本であろう。
本といっても様々有る。辞書は、知らない単語を調べることに役立つ。そういえば、小学生の頃は紙辞書を利用していたが、次第にスマホで調べるようになった。規準の本は、自分が知りたい情報以外にも細かい情報が載っており物理的にも精神的にも重い。読む気がしない。初学者向けの本は、あまり読んだことがないからよくわからない。Youtubeやネットで簡単に調べられるからだろうか。こうしてみると、簡単な情報はネットで、詳細な情報は専門的な本に当たった方が良さそうである。

小説や新書を自分の興味として読む分には気軽に読めるが、調べたい情報があって本を選んで読むときは本当に気が重くきつい。そんなに時間がたっていないのに疲労がどっと溜まる感覚がある。

まず、本選びから始まる。本を探すのはネット検索、または図書館に行き本があるだろう分野のエリアに足を運ぶ。ネット検索が苦手な私にとってはうまく文献にありつけない。気合いが足りないのだろうか。

次に、見つけた本を読む。私は積ん読というものをあまりしない。一部だけ読むとなった場合、読まないと切り捨てた箇所に大事な内容が有るのではないかと気になってしまうからだ。かといって、全部読もうとすると、不要な部分もあるから時間を食ってしまうし内容が頭に入ってきづらくなる。資料調査ができる人たちは的確な積ん読ができるのだろうし、そこまでストレスにはならないのだろう。

この苦しさの中には、効率よく調べたいというコスパ・タイパの精神が根底に備わっているのだろう。私は倍速視聴をしないからそういう精神はない部類の人間かと思っていたが、例に漏れずそうではなかったらしい。決して無駄な経路をたどりたくない、一本の道で済ませたいという気持ちがあるのだろう。

だが、今考えると、一発で欲しい情報に行き着くというのは中々困難な話だから、代替案を用意するか、無駄に思われる内容も予備知識として楽しむ精神が必要であると考えられる。

1本で行きたいから案を1個しか用意しないことはよくあるが、これは直さなければいけないと思っている。ひまわりなどの植物を育てる際、最初は複数の種から育て、成長の様子を比べて、1番よく育っている対象以外は途中で切り捨ててしまう。普段提案するアイデアも同じで、最終的には没になろう案も途中まで競わせることで、最終的な案が強力になるための助けになると思えば、間接的に力を貸してくれるとみなせるだろう。

また、代替案をもつことで、進めていた案の先行きが怪しくなったときに路線変更できる。1つしか案がないと、可能性がほとんど無いのに無理矢理進めてしまうということにもなりかねない。複数の案を用意すると言うことはリスクヘッジにもなり得る。このことに対して、私はサッカーに似ているなと思った。

サッカーをするとき、プレーの選択肢を多く持つことを指導されていたような気がする。一つのプレースタイルを極めるのもいいが、時間がたつにつれ相手に対応されるから効き目がなくなってくる。プレーの選択肢(ドリブルで打開する、ダイレクトパスを出す、直接シュートを狙う、両利きなど)が豊富であれば、最終的に選択したプレー以外がフリになり、うまく突破できる可能性が増すだろう。

最終的に破棄になるからと効率に頼るというよりは、選択肢を多く持つことの有効性を理解して代替案を考えておいた方がよいだろう。

また、そのときは対象ではなかった情報に関しても興味をもつということは、辞書を引くときに学校で教わった覚えがある。

調べたい単語を引くと意味が複数出てくる。その場で知りたい意味だけ覚えるのではなく、その他の意味も覚えておくと多面的にその単語を捉えられそうだし、後々役立ちそうである。また、異口同音の単語が周辺にあるのでそれも覚えると教養になりそうである。

こういう楽しみ方をした方が調べ物は楽しくなりそうである。

ネットが普及していなかった時代に、自分の足を使って調べ物をしていた方々には頭が上がらない。

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