#58 暇を潰す

日常生活をする上では何らかの予定が入っておりそれらに沿って活動することが一般的であると思うが、予定していたことが思っていたよりも早く終わったり、もしくは予定がなくなることがあるだろう。さらには、予定よりも時間が延びるかもしれないと思って確保していた予備の時間が不要になることもあるだろう。こういったとき、私たちには暇な時間というものがもたらされる。

暇な時間といっても5分程度や30分程度、1時間から5時間、あるいは1日、またはそれ以上といったように時間量によって受け取り方は異なってくる。私たちは暇な時間を何らかの形で埋めようとするが、その行為を一般的には「暇つぶし」と呼ぶ。

「潰し」というのは、弱点を潰す、敵を潰す、缶を潰すといったように不要なものや邪魔なものをなくすというニュアンスを持っている。このように、「潰し」という言葉からは、暇とはあってはならないものという印象が感じ取られる。

なぜ暇はあってはならないという前提があるのだろうか。それは、暇だと活動がないから生産性がなく、頑張っていないということになるからだろうか。たしかに、忙しいと言える状況の方が充実している雰囲気が感じられるような気がする。大学生になってからは暇と思える時間が増えた。私は予定が入っておらず自由にできる時間に対して、一方では快適さを感じ、一方では苦痛を感じている。暇な日であれば、自分の好きな時間に起きて好きな時間までYoutubeを見てだらだらして好きな時間に寝ることができるから快適だ。だが、ずっとそのような生活が続くとマンネリ感が生まれ退屈になると同時に社会的な用事(大学やアルバイト)が入ることに対する心理的なハードルが上がる。

暇な時間はたまにあるからよいのであって、常に暇というのはそれはそれでつらいということになる。そうなると、どの時間までの暇なら辛くないのかが問題になるが、これは人によって異なってくると思う。

例えば、数分の暇に耐えられない人はすぐスマホを見るだろう。スマホは触られるように設計してあるが、それによって我々が持つ暇に対する耐性が低下しているのか、またはそもそも我々のほとんどがもともと数分程度の暇にも耐えられず、そこにスマホが適性を発揮したのか、親が先か卵が先かということになる。

街に出かけたり電車に乗ると私含めて多くの人がスマホを触っている。そういった人々は数分程度の暇さえも許容していないということがわかる。

一方で、暇を許容していないというよりは、予定や今できることを前倒しして取り組んでいるということもいえるのではないか。この時間にこれをすると決めることもいいが、最終的に達成したい目標を決めて、時間が許す限りそこに向けて時間をかければ、後から追加で別のことに取り組める可能性もあるので悪いことでもないと思う。

取り組みたいことが無限にあって、かつ時刻で計画を考えなければ、そもそも暇という概念は存在しなくなるのだろうか。そういった生活ができれば充実するのだろうか。

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