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打ち上げに行く元気がないやつがライターになれるわけがない


 宣伝会議47期、無事に卒業制作のフィードバックを受け、全授業終了しました。
 私の制作は優秀賞にはもちろん届かず、一方でひとウケは取ったかな、といった結果です。
いつもと同じです。
 記事はまた、関係者の方に確認を取り次第こちらで掲載したいと思いますので、よろしくお願いします。私の腕はともかく、インタビューを受けてくださった方はとても面白い方で、いい話をしてくださったので期待していただきたい。

親の顔より見た負けパターン

 賞を取れないのはいつも通りです。数字をとれたこと、ございません。上手くいったかもしれない!という期待が全然的外れなのもいつも通りです。諦められずにしがみついた「文章」においてもそうだっただけです。

 大学院生でもメーカー開発職でも、たくさん飯が食えて酒が飲めて声が大きい人たちに負けてきました。空気を読まずに自分のやりたいようにやる人間に負けてきました。

 これは私の能力がどう、ではないのです。
 純粋に彼らの努力量が私を上回っている。

 私が抑うつで寝込んでいる間も、外部環境に振り回されている間も、彼らは努力してきた。
 今回だってそうです。優秀賞を受賞した方々の作品は私とは取材した量が全然違った。デザインにかけた労力が段違いだった。別に天性だけじゃない、確かな努力のあとが、素人目にも分かりました。

だからこそ私は悔しくてたまらない。

会社では、体力があって長時間の肉体労働ができる人間が重宝されています。もう私の持病では太刀打ちができません。
ものづくりとちがって文字書きなら脳みそでできる。天性のずる賢さと人生で培った読解力と解釈力。これをフル回転させれば、ここでは私もメシを食っていけるんじゃないかと甘い夢をみました。

 しかし、自分の講評の前、他の制作の講評を聞いている時点で、私は自分の文章に足りない部分が明確に分かっていました。指摘されて、そうですよね〜という反応をしてしまった。なぜなら、卒業制作の提出前に、私の記事には必要な取材が足りないことに気づいていたし、読み手にとってよくなるようなアイデアを持っていたのに実現しなかった。
 一方で、優秀賞を取った方々は、取材に体力や時間というコストをたくさん払っていた。人脈という幸運でも経験でもなく、彼らが努力してつくった物量でそのテーマを光らせていた。

 私が鬱で寝込んでなければ、もう少し踏み込んで取材するポジティブさを持っていれば、絶対にもっと良くなった私の卒業制作。コンセプトに思い入れがあった分、自分の頑張りが足りないせいでだめにしてしまったことが悔しくて悔しくて、仕方がない。

負け犬にしかできないこと

 ついに憧れの世界でも負けて、それでも思うのは、大きい声が出なくてメシも食えない他人を気にして狼狽えてすぐ塞ぎ込む私のような弱い人間がこの世にいていい場所を作れたら、ということです。どうやら世界は身体が元気で明るいパワーがある人間のためにできている。でも、そうじゃない人間だってやれることはあるはずだ。それが言えなかったら私は生きてる価値がないわけですから。そして、逆に私が断言できたら、頑張れなくて勝てないどうしようもなく自分が嫌いな人間も生きていていいと言えるはずなんです。
 気力も体力もない私が人生をかけれるのは、存在のためだけです。それ以上の高尚なことなんてできない。

 そして、それが叶う場所は、やっぱり言葉の世界なんじゃないかなあ、と思っています。
本当は私のような弱い生き物が入れる場所はないかもしれないけど、嗅覚に従って、もうすこしだけ、文章の世界にしがみついていたい。

そんなことを、打ち上げにいかずに考えていました。

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