「語れない」人物を「語る」ということ|クラリッセ・リスペクトル著、福嶋伸洋訳『星の時』書評

「わたしはある小説の書評を書こうと思う。書かなければならない。小説のほうがわたしのなかで自分の存在を強く示してくるからだ。しかし同時にわたしは評が始まるのを恐れる。虚飾で曲解を招くことのないよう、この文章ができる限り事実のみを綴った、冷酷な報告となることを望む。もうすぐ始まるだろう。迫りくる“期日”にもう耐えられなくなってきた。とは言え、こうして発光するモニターを凝視していると目が霞んで仕方ない――」

 福嶋伸洋の手でついに翻訳されたクラリッセ・リスペクトルの遺作『星の時』。その語り手であるロドリーゴ・S・M氏の弁をまねて今の心境を陳述してみた。クラリッセ自身を思わせる彼もまた、ある〈北東部の女ノルデスチーナ〉の物語を書きあぐねている。

 原著の出版された1977年当時、都市から隔たるブラジルの北東部は貧困の象徴でもあった。〈ぼろの服を着て、タイプライターの打ち方も知らず、アラゴーアスのあの荒野《セルタオン》から出るべきではなかったかもしれない〉主人公の女性とは対照的に、ロドリーゴは同じ北東部出身でありながら〈文筆業ではうまく行っていなかったけれど〉食うに困らない中流社会の人間である。〈自分が彼女でないことが卑怯な逃亡〉に思える彼は、その罪悪感を払拭しようと筆を執る。

 彼が自身に課した制約は〈始まりを正当化するような結末から書〉かず、〈先立つ出来事から書き留める〉こと。〈言葉を飾〉らず、〈単純な言葉で語〉ること。自分が何者であるかを考えてみたこともない彼女の人生は、小説を読み書きする程度に雄弁な者の手にかかれば、取るに足らないものと切り捨てられるか、お涙頂戴の感動ポルノにされかねない。

 試しに彼女――78頁にしてようやく私たちは〈マカベーア〉という名前を知る――の人生を粗略に語ると大体こんな具合になる。

 貧しい土地に生まれ、2歳で両親と死別し、気難しい叔母に罵られながら育つ。その叔母もリオデジャネイロに来てすぐ亡くなり、彼女は一人スラム街に残される。学はなく容姿にも恵まれず、職場では常に解雇寸前。粗野で狡猾な恋人にはいとも簡単に裏切られ……。

 絵に描いたような不幸の連続で、物語の筋としては陳腐でさえあるが、これこそ当時ブラジルで暮らす百万の〈北東部の女ノルデスチーナ〉が直面する現実だった。そんなどこにでもいる若い女性の日常に、もう少し距離を詰めてみよう。

 給料日には一輪のバラを買うこともあり、〈贅沢と言えば、寝る前に冷たいコーヒーを飲むこと〉くらい。〈タイピストで処女でコカ・コーラが好き〉な自分に満足し、マリリン・モンローに憧れ、明け方に聞く〈時計ラジオ〉の正確に時を刻む音や、合間に流れるコマーシャルの知識を楽しみにしていた彼女――

 1985年、物語を基に一本の映画が制作された。福嶋によれば〈原作にあるロドリーゴの存在は完全に削られ(中略)ブラジルの慎しい少女の暮らしを描いた、哀しく美しい作品に仕上がっている〉。マカベーアの瞳に映る世界は質素だが、時に微かな光も差し、人の胸を打つに足るものがある。主演女優の好演もあって映画は一定の成功を収めたが、小説の読者には、冷徹な筆記者たらんと努めたロドリーゴの激しい葛藤を忘れられまい。

〈ぼくは怒っている。グラスや皿をなぎ倒して、ガラスを割りたいくらいだ(中略)どうして彼女は歯向かわないのだろう? その覇気もないから? 彼女は人に甘くて従順すぎる〉。
 暑い部屋でフルーツや白ワイン、コカ・コーラをお供に、時折歯痛を気にしながら、家計に貢献しない執筆に煩悶する彼の姿は、マカベーア本人よりむしろ苦しげに映る。

 無知ゆえに自身の分け前の乏しさを知らず生きる者がいて、その状況を許す社会がある。己の欺瞞を知りつつも、〈北東部の女ノルデスチーナ〉に心を寄せたロドリーゴ(クラリッセ)を思えば、一読者に過ぎない私も、彼(彼女)の選んだ一語一語を漏らすことなく噛みしめたい。


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