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上田重安 一番槍から風流人へ

 戦国時代、一番槍にのみ、こだわり大名、家老にまでなった武将に、
上田重安(しげやす)がいる。
 彼は、尾張国星崎(現・愛知県名古屋市南区)に、織田信長の重臣・丹羽長秀の家臣の子として生まれた。
 信長が本能寺の変に横死したおり、
四国方面軍副司令官の丹羽長秀とともに、渡海の準備に追われていた。
 本能寺の一報が伝えられるや、重安は、長秀に命ぜられ、叛将・明智光秀との内通が疑われた光秀の娘婿、津田信澄(信長の弟・信勝の子)を、一騎で打ち取りに出向いている。まっさきに駈けて大坂の千貫櫓に到達し、見事に一番乗りを果たした重安だったが、彼は手柄を独り占めにするため、なんと自らが開いた門を閉じ、味方をなかに入れないようにして、たった一人で敵の群がる中へ突入していった。
 その後、主人長秀が羽柴秀吉と連合して、柴田勝家と対峙。長秀が越前
一国と加賀二郡を加増されたおり、重安は破格の一万石をもらった。
 長秀は病没したが、一方で秀吉の直臣になった重安は、秀吉の正室・北政所の実弟である杉原家次の娘と結婚。豊臣一族として遇される身となった。
 秀吉が世を去り、関ヶ原の戦いでは、東軍に与したものの、領地を没収される。
 彼はどうしたか。頭を丸め、「宗箇(そうこ)」と号して、人生を開き直る。
 意外なようたが、「宗箇」には、武辺者とはまったく別の、芸術家の顔があった。重安は阿波徳島十八万石の蜂須賀家政に招かれ、徳島城内に千秋閣庭園と呼ばれていた表御殿庭園を築いている。
 宗箇は秀吉に茶の湯の手ほどきを受け、本気的に千利休に学び、利休の死後はその弟子、古田織部について学び直し、京都大徳寺第百十一世の春屋宗園から、前述の「宗箇」=法諱を授かっていた。
 作庭も芸術家の彼の守備範囲だった。
その後、紀州和歌山城主の浅野幸長の客将に招かれ、和歌山城の西の丸庭園、粉河寺の庭園を造っている。
 茶人としても研鑽を積み、独自の境遇を開き、「上田宗箇流」を称した。
 大阪冬の陣では、塙団右衛門を落ち取り、一番槍の軍功をあげている。
 浅野長晟(長政の子)が家康の娘・振姫と婚礼し、浅野家は、芸州広島。さらに安芸国に備後半国を併せて、四十二万六千石の大身となった。
 これにつきしたがった重安は、安芸国佐西小方(現・広島県大竹市小方)において一万二千石を賜り、家老となって、大名にも復帰している。
 慶安三年(1560)に、八十八歳でその生涯を閉じた。

索引 

加来耕三 『戦国武将学』



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