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 会津の鬼官兵衛 佐川官兵衛

 佐川官兵衛。江戸末期、陸奥会津若松城五軒町に生まれた。文武両道で、特に馬術と剣術に優れていた。
 文久年間、会津藩主 松平容保は、京都守護職に任ぜられ、藩士を率いて上洛した。元治元年(1865年)に会津藩と薩摩藩が手を結び、長州藩を京都から追い落としたのが、禁門の変。
 以来、都下は騒然としていて、警護の隊の充実が必要だった。
 会津藩は、藩士の子弟で武術優秀の者を選んで、別選隊を編成したが、官兵衛は勇敢さを見込まれ、別選隊長となった。
 官兵衛、壮年にして、剛直、胆略があり、部下はよく之に服し、威望は藩の内外に聞こえた。
 官兵衛は洋式の練兵は好まず、会津藩特有の武術を研究し、実戦した。
 慶応四年(明治元年 1868年)正月、徳川慶喜は、会津藩・桑名藩を先鋒として、京都に入らんと鳥羽伏見両道から進んだ。官軍の兵、これを拒んだため、戦端が開かれた。鳥羽伏見の戦いである。
 官兵衛、部下を率いて伏見肥後橋より
進んだ。後方に火の手があがり、前後進退が出来なくなった。軍目付によると、
撤退して戦うのがよかろうと。
 官兵衛、殿(しんがり)となって、隊を退却させた。その挙止、沈着であることが賞賛された。  
 
 鳥羽伏見の戦いは正月三日より六日に及んだ。
 官兵衛、連日連戦、常に刀槍の隊を
もって敵中に突貫して、これを破った。
毎戦進んで必ず陣頭に起った。
 五日の激戦では、淀川堤上において、
銃丸雨下する間、部下を指揮していた。
敵弾、刀に触れ、刀は折れ、脇差しを抜いて更に叱咤し、隊を挙げて敵中に突貫せしめた。弾丸飛来、官兵衛の面を撃って右目を傷つけたが、失明に至らないからと、勇を鼓して闘い続けた。
 この戦において官兵衛の部下の死傷する者多く、隊員の三分のニを失ってしまった。もって如何にその戦闘が激烈であったかを知るに足る。
 しかも精鋭の刀槍隊は世に会津の武勇を示すと共に、鬼官兵衛の号もここにおいて、確定したのであった。この時、官兵衛は初めて西洋の戦器が利なる事を知って、今後の戦争は西洋の利器に限ると言った。
 
 佐川官兵衛の激闘は続きます。
 〜鬼官兵衛 佐川官兵衛②〜に続く。

 
 索引  幕末・明治名将言行録(詳注版)2015年 原書房 近世名将言行録刊行会 編


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