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坂本龍馬②

 島津久光が藩兵を率いて、京都に上洛すると聞いて、脱藩した龍馬。
 様々な過程を経て、勝海舟に会いに行き、その弟子になった。攘夷をするには、国を富ませ、海軍を持たねばならない、とする勝海舟の意見に共鳴したのだ。
 その海舟が、神戸海軍操練所を作るというので、その塾頭をしながら、船の操作などを学んでいく。その操練所も長くは続かず、元の浪人に戻った。
 勝が、江戸に召喚される時に、薩摩藩の西郷隆盛、小松帯刀に龍馬たちの身元、引き受けを頼んだ。
 薩摩藩は、快諾し、龍馬たちは、薩摩藩の庇護の元、操練所の仲間と長崎に亀山社中という結社を作った。この亀山社中は、今でいう商社であり、自分達で、船を操船していた。
 ここに、長州藩が、幕府に責められそうなので、最新鋭な武器と蒸気船を注文してきた。
 龍馬は、薩摩藩名義で、これらを
調達し、長州は、幕府に責められたが、
完全勝利をした。
 薩摩藩は、幕府を倒すためには、長州と結ぶのが、不可欠と考えていたが、
凄く仲が悪い。その薩長を龍馬は、薩摩藩が長州のために、武器を調達して上げ、長州は米を薩摩に売った。そういう
経済的な結びつきをさせて、薩長を接近させた。薩長同盟は、土佐の中岡慎太郎
らも画策していたが、龍馬が重要な役割をしていたようだ。
 薩摩藩が、幕府への戦闘準備のため、
亀山社中まで、面倒見きれなくなった。
 そんな時、薩長へ近づきたい土佐藩が名乗りをあげて、龍馬は海援隊をつくる。隊員に金を払うのは、土佐藩だ。
 海援隊で、経済活動をしつつ、
徳川慶喜に大政奉還を飲ませ、内戦を避ける政略をしつつ、福井藩の由利公正に、新政府の財政を頼みにでかけ、京都の近江屋で暗殺された。生まれた日と同じ、11月15日だった。31歳だった。


 駆け足で、龍馬の人生を書きました。
 龍馬は、寺田屋事件、おりょう とのなれそめ、いろは丸事件 龍馬暗殺など、書きたいことが、いっぱいありますが、その内、少しづつ書いていきます。

 この歴史コラム、1年が経ちました。
ひとえに続けられたのは、みなさんに
読んで頂けたからです。
 また、1年頑張るつもりです。
よろしくお願いいたします。



 

 
 

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