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 会津の鬼官兵衛 佐川官兵衛 ②

 鳥羽伏見の戦いに敗れて、会津藩兵は、東還し本国に帰ってきた。
 錦の御旗が江戸にひるがえっている。
関東は官軍に席巻された。
 朝廷、北越征討の兵を発した。
 官兵衛、君命を奉じて越後長岡の救援に向い、長岡藩の総裁・河井継之助と共闘し、奪われた長岡城を奪還した。
 しかし、時に会津藩において、白河口から官軍により圧迫され、危険になったため、藩主 松平容保は、官兵衛にすみやかに帰るように命じた。官兵衛、
会津若松に帰還した。
 官兵衛、会津若松に帰るや藩主は、家老に任じ、防戦のことを任せた。
 石筵(いしむしろ)方面の会津兵、戦に敗れて、官軍、猪苗代に入り、会津藩の驚愕は激しかった。
 藩士の各部隊は、皆、出陣していて、国境を守っているから、城内にはわずかな兵しかいなかった。すなわち、農商民から募集した敢忠隊と白虎隊の一部隊とがあるのみであった。
 官軍、次第に進撃してきて城は包囲され、積み上げた卵のように、城は危険になった。官軍はさらに城の間近にある、小田山を占領して、山の上から眼下の会津若松城を砲撃してきた。
 そのため、城内の死傷者が増え、落城は最相、時間の問題となってきた。これに加えて、城外の倉庫が焼けて、食料が乏しくなってきた。
 これに対処するには、城下の敵を一掃し、食料運輸の道を開くことが、最も肝要となり、官兵衛、進んでこの大任を引き受け、城中の精兵一千を率いて、
死闘することになった。
 時に藩主 松平容保は、自ら帯びている名刀を官兵衛に与え、その行をたたえた。官兵衛、感激して、城下の敵を一掃しない間は、一歩も城内に足を踏み入れぬと自らに誓った。
 以来、この自らの誓約を堅く守って、それよりは、官兵衛、城外に転戦悪闘して、降伏落城の時まで、城内の土を踏まなかった。
 官兵衛の城外戦の目覚ましさは、神出鬼没の奇襲を繰り返し、時には、官軍の兵器衣類糧食を奪い、城内に運ばしめ、
皆の士気をあげた。
 しかし、官兵衛の健闘も形勢を挽回さるには及ばず、会津若松城は、遂に涙をのんで、官軍の軍門に降るのもやむを得なきに至った。
 官兵衛は、一人、大内村に在って、依然として、官軍に抗し続けていたが、
 藩主 松平容保はこれを憂いて、使者を派遣して、官兵衛を諭した。
 官兵衛は、その命を奉じ、一軍を挙げて、謹慎の意を表した。

 
 明治六年に征韓論に敗れて、下野した
西郷隆盛が、郷里の鹿児島に戻ったことに、天下騒然として、時に、川路大警視が、東京守衛の巡査を旧会津藩に募った。
 それに応じるか、否かは佐川官兵衛の一存にあった。官兵衛は悩んだが、それに応じ、旧藩の子弟三百人を従えて、官兵衛は東京に上った。
 
 明治十年、薩摩軍、熊本城を囲む。官軍、これを破らんと、東京警衛の警視巡査もって別働隊を編成して、官兵衛、その征途についた。
 官兵衛、豊後口に向かい、巡査五百を率い、猪突奮進した。
 戦い熟して、官兵衛、左腕に銃丸を受けたが、自ら、包帯をして、再び指揮した。しかし官兵衛、胸部、併せて前額に被弾し、官兵衛、遂にこの戦場に斃れた。
 佐川官兵衛、享年、四十七歳であった。


索引 幕末・明治名将言行録 詳注版
   2015年  原書房 
   近世名将言行録刊行会 編





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