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松川先生の退任に思うこと

私が現代短歌を「知った」きっかけは女性誌に載っていた記事からなのだが、「始めた」きっかけは、北海道新聞の日曜文芸という短歌欄に投稿したことだった。

当時は山名康郎さんと松川洋子さんの、二人選者制だった。最初は山名さんに投稿したが採用されず、松川さんの欄を観察すると、若い作者であろうと思しき人が採用されていた。

じゃあ、今度は松川さんに投稿してみよう!と思ったのが始まりで、割とすぐに掲載されて、家族には伏せたまま毎週こっそり新聞を確認していた。

していたのだが。

ある日、電話がかかってくる。「松川さんて誰?」と母はものすごく不審がった。それはそうだ。二十歳そこそこ宛てに、明らかに年配と思われる声の主から電話なのだから。

先生(これからは、いつも呼んでいるように先生と書かせてください)は、新しもの好きで、会いたがりだ。だから、ご飯に行きませんかと誘われた。二十歳とおそらく70歳前後だったのではないだろうか、二人きりの会食。場所は全日空ホテルのレストラン。

これは、新しい若手投稿者にはお誘いが来る、<あるある>な話なのだった。

それほど文学少女でもないし、たぶん話は弾んでいない。というか、緊張していたので覚えていない。宮沢賢治の話はした気がする。

先生はいつも色んな話をしていた。私に聴く力が無かったから、今思うとたぶん短歌史に関わるようなことを話していたのだと思う。塚本邦雄や岡井隆に会ったという話も聞いた。あと葛原妙子と手紙のやり取りをしたことなども。
あのときは、ふーん、と聞いていたけれど、今こうして人物を活字に興してみたら、ドキドキするメンバー。

先生には、いくつか恩に感じていることがある。

一つには、たった一枚の葉書から、私をその後20年以上も短歌に繋げてくださっていること。

もう一つは、北海道の若い短歌の仲間と繋げてくださったこと。

今なら、SNSを介して作者同士がやりとりすることもできる。でも20年前は違った。先生が若い人好きなおかげで、集まる機会を作ってくれた。歌会や「太郎と花子」の編集など。

先生の場合、指導や批評というよりはみんなで脱線しながらのおしゃべりが中心の歌会なので、若い時分はもっと批評のある歌会に出たいと思っていた。でも、今はそんなことよりも、みんなで囲んだ「座」が大事だったなと思う。

最近の「太郎と花子」がどんな感じかわからないけれど、あのような「座」で救われたり、楽しんでいる人がいることは変わらないだろう。

先生、長い間の選者お疲れさまでした。ぜったい長生きすると思うけど、まだまだ詠み続けてください。

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