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崖の上(へ)にピアノをきかむ星の夜の羚羊(かもしか)は跳べリボンとなりて 前登志夫『子午線の繭』

少し生活が落ち着いてきたので、今年はハードルをゆるく一首評を中心に書いていきたいと思います。
甘党な一首評ですがよろしくお願いします。
さて第一回目。

崖の上(へ)にピアノをきかむ星の夜の羚羊(かもしか)は跳べリボンとなりて 前登志夫『子午線の繭』

カモシカを画像で検索したら、思っていたのとだいぶ違っていた。
シカの仲間かと思ったけれど、ウシ科とのこと。ヤギとかに近いという説明もあって、確かにそうだなという感じ。
北海道と中国地方には生息しておらず、北海道の動物園にはいるのかどうか。私がただ見過ごしているだけかもしれない。

歌に戻るが、ピアノの旋律はどこから聞こえてくるのだろう。崖下からかもしれないし、もしかしたら星空の奏でる旋律なのかもしれない。なんとなく「星の夜の」でゆるく切れている感じがするから。
画像で見るカモシカは思ったよりずんぐりしていて、かわいらしい。
跳んでるシルエットはリボンぽくもある。明るい夜空を背にしてぴょんと跳ぶその一瞬を詠んでいるのかな。
『子午線の繭』を読み返したら、以前読んだときの付箋がそのまま残っていて、この歌にもついていた。
私の好みはあまり変わってないらしい。

『子午線の繭』といえば、
かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり
の巻頭歌をはじめとして、樹の歌、故郷に帰るという背景からの村の歌、自分への処刑(しおき)という意識の歌などが印象に残る。モダニズム詩からの出発ということもあり、また時代は前衛短歌の頃なので、歌風にもその影響を感じ取る。

もの音は樹木の耳に蔵(しま)はれて月よみの谿をのぼるさかなよ
向う岸に菜を洗ひゐし人去りて姙婦と気づく百年の後
戸口から母がはひると夏山はともに駈けこみ叙事詩をねだる
道白く埋むるまでに散りいそぐ花にむかひて魚となりにき
冬の星鳴り交ふ空の内耳にて誰がのこぎりぞ樹を挽くらしき

夕闇にまぎれて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ
帰るとはつひの処刑(しおき)か谷間より湧きくる螢いくつ数へし
壜に写るいびつの顔のつぶやけるただ一語のみ 都市こそ幻影

歌を書き写すと、好きだなあ、と思う。
家業が林業というところ、そして奈良の人というところなど、師事している前川佐美雄との共通点も多くあるけれど、同時代ということでは寺山修二っぽさもある。

夕闇にまぎれて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ 前登志夫『子午線の繭』
かくれんぼの鬼とかざれるまま老いて誰をさがしにくる村祭 寺山修二『田園に死す』

死者も樹も垂直に生ふる場所を過ぎこぼしきたれるは木の実か罪か 前登志夫『子午線の繭』
この垂直な感じ、あったなあと思ったときに、寺山だけでなく楠さんにもあったなと思って探す。
一本の樫の樹やさしそのなかに血は立ったまま眠れるものを 寺山修二『寺山修司コレクション① 全歌集全句集』「十五才」初期歌編
立つたまま血潮は縦にながるるを兵は真夏の樹幹のごとし 楠誓英『禽眼圖』

楠さんの歌を読んだとき、寺山の歌を思い起こしていたけれど、こうして並べると、前の歌のほうが雰囲気が近いかもしれない。この兵は生者であるものの、「真夏の樹幹」には濃い影を思わせ死をはらんでいるようにも感じるから。
そんなことをつれづれ思うのでした。


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