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音楽制作業 OFFICE HIGUCHI 10周年までの道のり#38 〜狂ったように繰り返される言葉・・・その奥に蠢く禍々しい予兆〜

お世話になっております。代表の樋口太陽です。

お仕事の連絡をいただく中で、よく聞く言葉があります。

「今回、予算なくて。」

私たちの仕事は、事前にお見積りをたてる機会は少なく「こういう案件ですが、◯◯円でお願いします」という言い値(指し値)で実行することが多い業界です。見積もりのステップを踏まず、とにかくスピーディーに実行する必要がある、というのもあるとは思いますが、まぁ慣習的なものです。

私たちの仕事はクライアントの広告予算があって成り立つお仕事。しかし、それはいつでも潤沢なわけではなく、時には想定されているご予算が少ないこともあります。でも、取り組む仕事があるだけありがたいこと。次回は予算が大きいことを期待しつつ、苦笑いしながら、

「そうっ  すか〜、わっかりました!今回それでOKです!またお願いします!」

と答えるのが、正しい対応です。ある案件の音楽予算が少なくても、次回以降のお仕事で、トータルで帳尻が合えばそれで問題はありません。もちろん義理堅い人は次回以降、近いうちに、予算が大きな仕事を任せていただけたりしますから。

あまりお金にはならないけど、やりがいのある仕事もあります。それぞれいろんな案件で、バランスをとってこの仕事ができれば、それでよいでしょう。「お金、お金」言わないで、自分にお声がけいただいたものは天命と思い、予算の大小に関わらず自分の役割をまっとうする。

それが、クリエイターというものです。

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これが、自分が上京した2010年代前半の、正解でした。

予算が少ない仕事の場合、その連鎖として心苦しいながら、私たちも制作においてお力を借りる社外の音楽作家やミュージシャンの方に言ってしまうことになります。

「今回、予算なくて。」

大変申し訳ないな・・・と思いながらも、もともと提示された予算が少ないのは本当のことなので、仕方ないことです。

すみません・・・また予算ある案件で返します!いつも無理きいて頂き、ありがとうございます・・・こんど飲み行きましょう!

そういうやりとりが、持ちつ持たれつの、人間らしいよい関係だと、思っていました。


かつては。


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2010年代の終わりごろ、少しずつ異変に気付きました。

Aさん「今回、予算なくて。」
Bさん「今回、予算なくて
Cさん「今回、予算なくて

それは同時多発的でした。ある時期を境に、誰もが、言い出しました。

X社「今回、予算なくて
Y社「今回、予算なくて
Z社「今回、予算なくて

それは人だけの問題ではなく。どの会社にも共通していました。

このクリエイティブ業界、特に広告音楽の世界では、基本的にはよほどのベテランでもなければ、お話をいただいたお仕事は、ご縁ということで、ありがたく感じつつ進めることが通常です。「断る」という選択肢は、あまり発想されません。

手がけさせていただくことは前提としつつ、やはり具体的に進めてみると大変だった場合、進んだ段階で、少しでも予算を上げていただく相談も。おそるおそるお尋ねします、ちなみにですが、ちょっとでも予算って上げていただけますか…?

「すみません、今回、最初にお伝えしていた金額からは、ぜんぜん上げれなくて。」

あっ、野暮なこと言ってすみません。答える言葉は

「そうっ  すか〜、仕方ないっすよね。今回それでOKです!

これを、また別の案件、別の会社、別の人相手で、何度も繰り返していくことになります。

「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」

おかしい。

「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」

何かが、狂っている。

「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」「予算なくて。」「今回、予算なくて。」「今回、予算なくて。」

九官鳥のように、皆が口を揃えて同じことを言うようになりました。

何かが、狂っている。

予算がない理由を添えられることもあります。

「地方案件だから、予算なくて。」「Web案件でTVCMではないので、予算なくて。」「ロケ地が増えてしまって、予算なくて。」

うん、いかにも、仕方ない事情な感じがします。しかし、複数の案件を長く観察していると、どうも様子がおかしい。大企業の案件でも、TVCMを絡めた規模の大きい案件でも、大御所の有名人が出演していても、まったく関係ないようだ・・・それは、すべからく全ての案件において使用される言葉でした。

親友の結婚式のムービーにつける音楽であれば、それでかまいません。親友のバンドの自主制作アルバムをつくるという話であれば、それでかまいません。

しかし、この仕事の場合、事情が違います。力を注ぐ先は、親友ではありません。れっきとした企業のビジネスにおいて、カスタマーとのコミュニケーションに関わる大事な話です。それなのに、無邪気に繰り返される言葉。

「今回、予算なくて。」


最初は苦笑いしつつ、おおらかに受け流すような言葉でした。しかし同じ言葉でも、何度も繰り返し聞かされるにつれ、その意味合いを変えていきます。

だんだん、だんだん。

それは、自分の尊厳を踏みにじられるのとイコールの言葉となっていきました。もはや会社の売り上げ的に困るとか、そういう話ではありません。

おまえら全員、ナメんな。

僕はしだいに、このワードを聞くと反射的に、くらくらするほどの怒りを覚えるようになりました。不思議なものです。きっと最初は、そんなに悪い意味の言葉ではなかったのに。きっと皆、悪気を持って使っている言葉ではないのに。
 
最初は、属人的な問題かと思いました。このセリフを言う相手がたまたま「悪い人」だと。しかし、どうもおかしい。人柄も、会社も、出身地も、血液型も、星座も、どうぶつ占いも。何もかも違う全員が、同時多発的に同じことを言っている。

僕が直接やりとりするのは、基本的にクリエイティブ業界の人です。しかし、その先には広告主であるクライアントがいます。広告の世界に身を置くと、様々な業界と関わることになります。

食品・建設・住宅・薬品・化粧品・電気機器・自動車・玩具・不動産・鉄道・航空・運輸・電力・ガス・飲食・ホテル・旅行・福祉・人材サービス・商社・IT・通信・コンビニ・新聞・銀行・証券・保険・行政 etc・・・

日本の全ての業界です。

きっとこれは、とある人だけの問題ではない。それはきっと根深い。

もはや、単なるクリエイターの愚痴の話ではなくなってきました。日本中で同時多発的に起こっている事が、表面化しているような気がしました。

いったいなんで、こんな事になってしまったのでしょう。

これの話を詳しく書くと本当に長くなってしまうので、超ざっくりと、細かいところはすっとばしながら書きます。僕はこの業界のベテランでも、専門家でもないので、あくまで、音楽制作者の自分からの視点、予想から書いたものです。

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ご存知の通り、かつて日本は豊かな国でした。大々的にCMでなにかを告知すれば、ものが売れた。だから、CMの予算も大きかった。CM制作スタッフは、その大きな予算から、みんなで山分けすればよかった。音楽に対してリスペクトがなくても、音楽制作者が、そのおこぼれに預かれば、皆がじゅうぶんに潤いました。

今はご存知の通り、テクノロジーによってグローバル化が進み、海外のサービスで代替できるものが多くなりました。モノの生産地は、海外に移り、モノの品質は海外のものでもけっこう大丈夫になっていって、コモディティ化が進み、日本製、最高だぜ!というわけでもなくなりました。

一方、広告の手段は、TVCMや新聞だけではなくなりました。WebやSNSなど。広告メッセージの代弁者はタレントだけでなく、Youtuberやインスタグラマー、一般の方が発信するWeb上での書き込みなど。手段が多様になり、どれに思い切り大事な広告費を賭けてよいのか、慎重にならざるを得なくなりました。財布の紐は堅くなり、以前のように簡単な話ではなくなりました。

でも、広告することは大事なこと。なくなることは、ありません。

広告をやるとしても、前のように大きな予算からの山分けができなくなった。その結果、慎重になってヒュルヒュルヒュルとしぼんだ制作予算の中で、何を節約するか。

タレントの出演費? 撮影費? 交通費? 宿泊費? 食費? 音楽費?

想像してみてください。

撮影の日に、スタッフの食べ物を買おうと、コンビニで、おにぎりとサンドイッチと飲み物をたくさん持っていって、レジで、
「今回、予算なくて。でも今日の撮影はクライアントもわりと多い人数が立ち会うんで、この人数分からは減らせなくて。」と、店員さんに言うこと。

タクシーに乗って、目的地を告げるなり、
「今回、予算なくて。でも必ず夕方には山梨県のロケ地に到着しないといけなくて、ガソリンをなるべく使わないように下り坂でアクセルを踏まずにいくなど、予算内に収めるやり方を探しながら行きたい感じです。」と、運転手さんに言うこと。

スタッフが泊まるホテルのフロントで、
「今回、予算なくて。でも、クライアントと代理店のクリエイティブ含め、スイートがいいと望む可能性がけっこうあって。でも、予算は上げれなくて」と、言うこと。


貴様の予算なんて、知らんがな。


この世の中で、そんな言葉、通用するわけがありません。

ふつう、誰にも通用しない、この言葉。「今回、予算なくて。」
それに対して今まで、気前よく、こころよく、応えていたのは・・・

音楽制作者でした。

わたしたちは、仕事の連絡に対して、丁寧に見積もりを出したり、事前に条件を聞いて受けるか断るかを慎重に考えるというような文化を持っておりませんでした。もとを辿ると、趣味の延長として、お金だけでない、やりがいを求めて音楽の仕事を始めた人が多いのも、原因の一部としてあるかもしれません。それを言うと、僕や兄がこの仕事を始めたきっかけも、そのようなものでした。

限られた広告制作費の中で予算削減の標的は、音楽費用になりました。音楽とは形のない、目に見えない、よくわからないもの。商流としても下の方なので、他のものに比べて予算分配の優先順位は低くなります。

他にもいろいろ原因はありますが、膨大な文章量になるので、割愛します。

様々な要因が複合的に重なり、広告における音楽制作費は、極限まで低く考えられることになりました。あきらかに断りにくい立場の人間に対して、相場よりも低い金額で、仕事を持ちかけること。


それはまるで、カツアゲです。


そんなに辛いのなら、断ればいいじゃないかと思うかもしれませんね。でも、クリエイターが、せっかく頂いたお仕事の話を断ること。それはものすごく勇気のある選択肢です。下手をしたら、もう同じ相手から二度と仕事がこないかもしれない。そのプレッシャー、金額交渉のストレスが耐えられず、無理を承知で受けることが多いものです。

ちなみに、兄は音楽作家としての時代、これを理由に精神を病み、あと一歩で復帰できないぐらいのところまで、何度もいってしまいました。#5でも書きましたが、予算の話は時々、人が健やかに生きれるかどうかにも関わるのです。


ストレスや不満を抱きながら安い仕事に時間を奪われることによって、それぞれの家族の時間を奪い、余暇の時間を奪い、他の意義ある仕事に注ぐ時間を奪う。それは連鎖します。また次の仕事も「今回、予算なくて。」また次の仕事も「今回、予算なくて。」

不良でもないのに、みんながみんな、カツアゲをしている。しかも恐ろしいことに、悪気がなく、堂々と。自社の利益を確保するという大義名分のもと。これはきっと、クリエイティブ業界だけでなく、他の業界でも起きていることではないでしょうか。

この負の連鎖を断ち切るために、自分に何ができるか考えました。まず、絶対に自分の口からは「今回、予算なくて。」を言わないようにしました。音楽プロデューサーの自分が、発注する先の、外部の音楽作家さんや、ミュージシャンには、まともな条件のものしか、関わらせない。

これを心がけると、自然と、どうしてもお断りせざるをえない案件が増えてきました。これで、自分の段階で「今回、予算なくて。」の連鎖を断ち切ることができます。当然、仕事の数は少なくなりますが、これ以上、不幸のバトンを繋がないことを優先するしかありません。もちろん、なるべくこんな事はしたくありません。苦しいことです。できれば、目の前の人を喜ばせたい。音楽の力を、何かの役に立てたい。でも、断るほかない。

「仕事があるだけ、ありがたい。」「忙しいことは、よいことだ。」

という、今まで植え付けられていた常識が、粉々に消え去っていきました。それでも、どうしても限られた予算の中、映像に音楽をつけなければ・・・という人は、いったいどうしたらよいのでしょう。

ライセンスフリー音源があります。

ライセンスフリー音源は、CMやWebで利用してもよい音楽として、権利的にクリアしている、あらかじめ作ってある楽曲を販売しているものです。以前は、ライセンスフリー音源は、クオリティの低いものが多かったものですが、現在は、数が爆発的に増えて発展しており、サウンドのクオリティが高いものも増えています。金額は一概には言えませんが、Web上で数千円で購入できたりするものが多くあります。

一般的な広告音楽プロダクションがオーダーメイドで制作するオリジナル楽曲は、数十万円〜百万円以上の楽曲制作費がかかり、しかも基本的には一年契約です。次年度以降は、7〜8割の契約更新費も発生するので、ライセンスフリー音源に比べると、はるかに高くつきます。

僕たちのような、音楽プロダクションにオリジナル楽曲を発注するような事をせずに、ライセンスフリー音源を使えば、お金もほとんどかからず、制作者もストレスがかかりません。誰にとっても幸せな気がします。

それでいいじゃん。

全ての案件でライセンスフリー音源を使用することになったら、僕の仕事はなくなります。そうなったら、オフィス樋口は、廃業することになります。

それでいいじゃん。

以前は音楽しか取り柄がなかった僕ですが、様々な経験を積んでいく中で、社会人としての能力を身につけてきました。他の仕事でもなんとかやれるはず。一度、他の企業に入社とかも、してみたいし。ぶちも、きっと大丈夫。広告音楽プロデューサーの仕事は総合的なビジネススキルが身につくので、あらゆる部分が鍛えられます。優秀な彼なら、どんな仕事にも就けるだろう。自分たちだけの問題だととらえると、簡単です。

沈みゆく広告音楽という船から、さっさと脱出すればよい。

しかし、ふと考えることがあります。

社会にとって、この世界にとって、広告音楽の仕事は、なくなってよいのか?

補足しておきますが、僕は、広告音楽というものを、わけもなく必死に守りたいわけではありません。時代の流れにおいて必要性がないのであれば容赦なく淘汰される。それでよいと思います。

しかし、#33でも触れた、疑問が湧き上がりました。本来、音楽というものは人間の文化のメインストリームであるはずです。

ピアノの習い事、合唱コンクール、「わたしの将来の夢は歌手です」、バンド活動、「わたしの趣味は音楽を聴くことです」、ロックフェス、DJ、カラオケ、紅白歌合戦・・・

しかし、広告の世界に中に入ると、とたんに理解されない、大事にされないところに追いやられます。不思議なものです。

このニッチな仕事に、存在意義はあるのか?

広告音楽制作という仕事は、人間の文化の歴史の上で、淘汰されるべきものなのか。そうでないのか。

昔、ぼくのモチベーションは音楽でメシを食うこと。社会人になりたいこと。会社を存続させたいこと。ぜんぶ、自分の周りの小さな話題です。

それが、何の因果か、こんな大それた事を考えなければならない時期にきてしまいました。


つづく

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