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音楽制作業 OFFICE HIGUCHI 10周年までの道のり#1 〜会社設立へ!安直すぎる起業の動機〜

お世話になっております。代表の樋口太陽です。

2010年終盤、おそろしいほどに大変だったけど、チームプレイで乗り切ったバンドスコア制作の大仕事が終わり、通常営業として音楽制作に専念する日々に戻りました。音楽制作と一言でいっても実際に何をやっているかというと、DTMと呼ばれる、PCを使用した音楽制作ソフトにて行う、作曲・編曲・演奏・ミックスの一連の流れです。

本来これらは、一人が担当する仕事ではありません。作曲家が譜面を書き、編曲家がアレンジをして、何人、何十人もの演奏者が楽器をプレイし、エンジニアが録音やミックスをします。

しかし、当時の私たちが関わるような仕事は、とにかく予算と時間がありません。本来の丁寧な音楽の作り方は出来ないのに加えて、音楽制作ソフトの発達や普及によって、一人の音楽クリエイターが全てを行うような事が、(場合によっては)可能になってきました。比較的新しい部類の職業です。肩書きは音楽作家と名乗っていました。

当時は基本的に、兄が依頼を受けてスタートする仕事なので、自分が手がけようと、納品物は兄クオリティに到達しなければなりません。一件ずつマンツーマンで、それはそれは、スポ魂な指導が行われました。

「なんでこの楽器にはリバーブかけてないん?」
「なんで今、ショートカット使わんかったん?」
「ほんとにこれで完パケのクオリティ?」

兄クオリティに到達するまで、粛々と背後から圧がかけられます。音のクオリティだけでなく、素早く形にするスピード感も肝なので、音楽ソフトの操作の隅々にまで、兄クオリティが叩き込まれます。ここで、とある思い出が浮かびます。

中学一年生の時、兄の影響でギターを始めた時の事です。Hi-STANDARDのGROWING UPのギターソロを弾いてみてと言われて、うまく弾けない。兄から、「もう一回、もう一回、はい、そこだめ・・・」と静かに圧をかけられました。その圧がおそろしすぎて、その後、音楽を兄に教わった記憶はあまりなく、音楽はほとんど自己流で習得していきました。大人になって、まさかあの圧を思い出す日がくるとは。

これぞ、It's GROWING UP だぜ・・・

当時の僕が、そう思ったかどうかは、定かではありません。しかし、こういった徹底的な指導がなければ音楽作家という存在になるのは厳しいという事が、今では理解できます。カバーしなければいけない範囲が広すぎて、産まれ持っての才能だけでは到底無理だからです。いい曲である事だけでなく、たとえば、ファイル名の管理まで。たとえば、ムービーと頭を揃えた書き出し範囲の設定まで。全て、プロとして問題のない動きをしなければなりません。あの日々がなければ、自分は音楽作家という存在になれませんでした。
(その後、音楽プロデューサーになりましたが、その話はまた今度)

そんなこんなで、小さいながらも、いろいろな仕事を手がけていた時期の事です。

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このノンキなツイートの直後に、それは起こってしまいました。

東日本大震災です。

中野のアパートも大いに揺れましたが、それの震源地が東京でなく、東北の方だと知ってびっくりしました。その後、各地の様子が徐々に明らかになり、現実を飲み込むのに時間がかかりました。

中野の近所のスーパーでも、食材が一切なくなり、非常事態を感じさせる光景でした。

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怖くて怖くて、その日の夜は兄の部屋で一緒に寝た記憶があります。これから先の東京での生活は、どうなるのか。未来はどうなるのか・・・そんなタイミングで、とある仕事が舞い込んできました。それは、「あたりまえ体操」というものでした。


COWCOWさんが歌う予定のもので、自分が担当するのはオケ制作までのはずでしたが、自分の仮ボーカルを入れたデモ音源が、ご本人に好評だったので、自分の声がまさかの本番採用となり、それから10年ほど歌い続けていくという予想だにしない結果になりました。

当時のデータを振り返ると、第一弾デモを書き出したのが、2011年3月14日。各地の状況がテレビで流れ、予想を超えた悲しい現実に、明るい気持ちで過ごせるような状況ではないですが、今、自分ができることは、目の前の仕事に向き合い、実行する事しかありませんでした。余震に怯えながら、楽曲制作を進めた記憶があります。

余談ですが、本番採用されてずっと楽曲の序盤に使用している「あたりまえ あたりまえ あたりまえ体操」の部分のボーカルテイクは、第一弾デモの時、中野の家での自宅録音テイクです。2011年3月14日にこの部屋で録音したテイクを、ずっと使用しているという事ですね。

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当時、COWCOWさんとは、僕はお会いした事がありませんでした。自分たちの新ネタの声を、外部のよくわからない人にお願いする、というのは勇気のある決断だったと思いますが、最初のデモから、本番使用に耐えうるテイクを繰り出していたから、COWCOWさんにも受け入れられたのではないかな・・・?と想像します。

もう一つ、この時期に僕たちのターニングポイントとなる仕事があります。兄の大学の先輩である越智一仁さんから、とある大企業のラジオCMの楽曲制作のお仕事の機会をいただきました。それのギャランティが・・・音楽制作会社にとっては通常な額だったかもしれないですが、当時、個人の音楽作家として細々と活動をしていた僕たちにとって、使い方に迷うぐらいの大きな金額だったのです。

飲みに、買い物に、パーっと使う道もありました。しかし、僕には何よりも実現したい欲望がありました。


社会人に・・・なりたい。


僕は、それまで社会人になった事がありませんでした。まともに就職した友人に触れ合うたび、社会人ってすげぇなぁ、カッコいいなぁ、と思っていたのです。どうすればそれを実現できるのか?それまで会社に入った経験のない僕に思いつく手段として、自分で会社を起ち上げるしか方法がわかりませんでした。もしも自分が過去に社会人経験があったならば、この欲望は存在しなかったかもしれません。

兄に相談しました。

「このお金を使って会社にしたいんやけど、どう?」

一方、兄は、社会人への憧れが一切ありませんでした。

「いや、別に会社とかは、しなくていーやろ」


お笑い芸人を目指しているぐらいなので、当然です。ただ、僕は、この夢を捨てきれませんでした。東京に兄弟二人が出て行って、なんだかよくわからない仕事をしている。そんな状況で、親に少しだけの安心感を与えたかったという事も、理由としてありました。

結局、兄にどうしても会社にしたいとお願いしました。一度、誰かの意見も聞いておこうという事で、「この兄弟で法人化するのってどう思います?」と、相談に行きました。地元田川出身の兄の同級生で、東京で起業されていた梶原暢介さん(通称ザンさん)です。ザンさんは、「法人化、いいんじゃない〜」とオススメしてくださりました。

兄も、ザンさんが言うなら、という事で気持ちが動きました。

お笑い芸人兼、音楽制作会社の社長という事実が、芸人的にもオイシイ

という魅力も刺さり、最終的にはノッてくれました。

形だけ会社化する。でも、フリーランスの延長なので、売り上げや給料は兄弟間とはいえお互いの稼働とズレないよう、フェアになるようにぱっきり兄弟それぞれの計算を分け、極めてフリーランスと近い状態にする、という話にまとまりました。

社名は・・・形だけの会社であれば、なんでもよかったのですが、なんだか横文字の名前にするのが抵抗がありました。あと、音楽を連想させる言葉を入れるのも抵抗がありました。

地元の田川で父、親が営んでいた建設会社は 樋口建設 といいます。
福岡市で、いとこが営んでいたレストランは 樋口 といいます。

この二人の兄弟だけの会社だし、そんな感じがいいなという話になり、バンドスコア制作の時に皓さんが言ってたしな、というのも理由として重なり、

株式会社オフィス樋口 
という名前になりました。

兄は代表取締役社長。僕は取締役副社長です。当時の名刺はこちら。
(当時はアルファベットが本名のHiroakiですが、覚えにくいので、のちに表記が、ニックネームである Taiyoになります)

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社会人になりたかった僕は、27歳にして取締役という称号を手に入れ、それだけで満足でした。

当時住んでいた中野のアパートを法人として登記していいのか?物件の情報を調べると法人登記がOKな物件ではありません。他にオフィスを借りるべきなのか?よくわかりませんでしたが、当時の僕たちの判断は・・・

まぁ、黙ってやっていいでしょう。

大家さんに無断で、登記しました。

法人化する戦略的な意図もなければ、法人としての理念もないし、ミッションもないし、クレドもない。大きくスケールさせるつもりもない。兄弟だから成り立つ、形だけの株式会社オフィス樋口は、2011年6月1日にこうやって始まりました。


つづく


あたりまえ体操の機会をくださった、小坂さん。
大きな転機となるお仕事に関わらせていただいた、越智さん。
会社設立の後押しをしてくださったザンさん。

この場を借りて、ありがとうございました。




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