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音楽制作業 OFFICE HIGUCHI 10周年までの道のり#3 〜プロポーズ失敗〜

お世話になっております。代表の樋口太陽です。

極めて個人的な事なので、こんなのまで書くのはどうなのか、というのは承知の上ですが、その後の展開に関わってくる事なので、書きます。

2011年の終わり、僕は福岡に帰る用事がありました。それは、福岡に残した彼女にプロポーズするという用事です。彼女とは、福岡時代から、6年間お付き合いをしていました。

会社を設立して、数ヶ月。自ら設定した役員報酬はとても少ないですが、「社会人になった」というのは自分の中で、「プロポーズが出来る称号を手に入れた」という事でもありました。

福岡に着いてすぐ、指輪を買いにいきました。婚約指輪にしてはだいぶ低い予算でしたが、見た中でよさそうな、青いサファイアが小さく輝くひとつを購入しました。

その後、彼女に会いました。当然、まだこの計画については何も触れていません。普通に、ひさしぶり、と接します。

夜、ふいにテレビから、自分が手がけたCMの音楽が流れました。全国規模のCMだということを実感します。これ、こないだおれが音楽やったやつ!福岡でも流れるとは!

彼女のリアクションは、そこまでありませんでした。

次の日、芥屋の海に向かいます。サンセットライブという、僕が大好きな音楽フェスが行われる場所です。フェスには彼女とも行った事がありました。冬なので、夏のにぎやかなフェスの雰囲気とはうってかわって、人もまばらです。この冬の極めて個人的な一大イベントに、僕が選んだ舞台はここでした。

桟橋を歩き、ポケットに入れていた指輪を出し、結婚して欲しい。と伝えます。お返事は、受け取れない、とのことでした。


あれ?



彼女は声を震わせ、受け取れないと繰り返し、何回目かで、「好きな人ができたので、受け取れない」という事を教えてもらいました。

・・・明らかなる、非常事態です。人は極度の非常事態の時、主観的にパニックになるか、俯瞰的にとても冷静か、のどちらかになるかと思いますが、この時の僕は後者の方でした。心が危険を察知して「死んだふり」をするので、感情が一時死ぬのです。

すっと彼女に背を向け、桟橋から浜辺に向かってすこし歩きました。ここで僕の頭を駆け抜けた迷いは、


この指輪は、海に投げた方がよいのか、そうでない方がよいか

という、まったくもってどうでもよい内容でした。海に投げても、あるあるな行動な感じで、カッコ悪そうだな、と思いました。そして冷静に考えると、単なる海へのポイ捨て行為です。それはよい事ではありません。投げることはせず、歩みを進めました。少し歩いた後、振り返ると。

曇天の冬空の下、灰色の海を背にして、彼女が桟橋で膝をつき泣き崩れている光景が見えました。

これはどうしようもない。とりあえず、車に乗って帰ろう、という事で、車に一緒に乗り、自分は最寄りの駅で降りて電車で移動することにしました。少しでも早く、この場から離れるべき、彼女と離れるべきだと思ったのです。タクシーが通るような場所であればすぐに乗りたいところでしたが、そこは何もない海。二人で車に乗るしか選択肢はありません。

帰りの運転は、僕担当です。しかし、黙々と運転していたその時、危険に気づきました。自分の目から涙が溢れて止まらなくなり、視界が悪いのです。路駐して「ちょっと危ないから、運転を替わってほしい」とお願いしました。運転を替わったあと最寄り駅に着いて、「今まで、ありがとう」と伝え、それが最後の挨拶となりました。

結局、その時から10年経った今まで、彼女とは一度も再び会うことはありませんでした。

僕は上京してから、ただただ、仕事に打ち込む事を優先していました。今の仕事をがんばることが最優先なのです。彼女の連絡をとるのは数日おき、直接会うのは数ヶ月おき。彼女とのコミュニケーションを疎かにしたその結果、別れが訪れたのは必然です。この結果は誰が悪いわけでもなく、ただただ、そういう結果だっただけでした。

こういう事を経験したから、僕はサプライズ企画として行われる「断らずに成功することを前提としたプロポーズ」というものが恐ろしくてたまりません。そんな事はやめた方がよいと思います。「断れる」という選択肢は、二人のためにいつだって残してあげるべきなのですから。

その日の夜、僕は地元の田川で用事がありました。友人たちに、今日プロポーズするという事を伝えていたので、お祝いパーティーを企画してくれていたのです。帰って、プロポーズは失敗だった事を伝えます。ともだちにとっても寝耳に水な結果ではありますが、ともだちは、パーティーグッズを買って用意してくれていました。装着する他に選択肢はありません。その時の写真を、ともだちに頂きました。

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とてもプロポーズ失敗した当日には思えないような、ただただ酔っているだけの写真ですが、これが当日の模様です。

もう飲んで食って盛り上がるしかありません。当日、居酒屋の後はカラオケに行って、歌いまくりました。
 
次の日、どうしようか。とにかく、この手元の指輪はどうにかした方がよい。現実的に考えると返品という手段しかありません。再び指輪を買った店舗に行きます。

すみません、こちら返品可能でしょうか?

通常だと、返品は厳しいのですが、どうなさいましたか?

実は、プロポーズに失敗してしまって・・・

そうでしたか・・・返品はやはり厳しいのですが、同価格帯でお客様がお使いになる、例えばメンズのアクセサリーなどに交換ならできるのですが・・・

これで僕が前向きにメンズのアクセサリーに交換していたら、店員さんもビックリだった気がしますが・・・。結局、渡せなかった指輪は行き場がなく、そのまま東京に持って帰ることになってしまいました。

夜、飛行機で東京に着きます。その日の夜中の間に、どうしても行わなければならない予定の仕事がありました。それは、D-51さんの楽曲「NO MORE CRY」を再現した音源を形作る、という仕事でした。

夜中に、中野のアパートで、一人歌の録音を進めます。

♩走り出すよ NO MORE CRY〜 ♩NO MORE CRY〜 君がそばにいてくれた〜

この段階に来て、非常事態により、今まで麻痺していた感覚が蘇ってきます。

♩明日へ NO MORE CRY〜 ♩NO MORE CRY〜 悲しみじゃなく 喜びの涙を流したい〜

今やっている、この仕事内容が辛いのです。

NO MORE CRY じゃねぇちゃ・・・

何度か机にうっつぷしながらも、夜中の歌録りを、やりおおせました。仕事だから、仕方ありません。

それから日が経つにつれ、僕は、だんだんとダメージを受けてきました。「死んだふり」をしていた感情が、蘇ってきます。ホームセンターにいても、涙が出てくるし、商店街を歩いていても涙が出てくる。日に日に、伝えたいことがでてくる。僕にできることは、伝えたい事が溢れたタイミングで、手紙を書いて郵送することぐらいでした。もちろん当時はメールやSNSが存在していましたが、僕には手紙という手段でしか連絡をとることはできませんでした。理由は、即レスが怖いからです。即レスがとれない手段は、郵送に時間のかかる、手紙しかありませんでした。

当時の決意は、諦めるではなく、やはり彼女と結婚したい、そのためにがんばる、でした。アブない発想です。しかも、僕が手紙を書いていたのは、手書きではなく、Wordソフトです。Wordで練り上げた文章を、プリントアウトして郵送していました。

僕があまり字が上手い方ではないので、活字の方が読みやすいだろう という理由でした。

プロポーズを断った元彼から、Wordで打った活字をプリントアウトした手紙が、定期的に郵送で届く。彼女の立場に立って冷静に考えると、そうとうアブない状況です。

無計画に福岡に帰省して、「いま福岡にいるので、会ってほしい」と連絡した事もあります。結果、会えませんでしたが。

いわゆる猟奇的な行動とは、こういった純粋な動機の積み重ねから発生します。遠く振り返ってはじめて、アブない行動だということがわかる。そういうものです。

そんなどうしようもない時期に、転機が訪れました。引っ越し計画です。次の引越しは、シェアハウスです。兄の大学の後輩の、オチタカユキさんと、兄との三人暮らしという計画でした。(前述の兄の先輩の越智一仁さんとは別人物ですので、カタカナ表記にします)

オチさんは、大企業で働いていたのですが、体調を崩して休職中。兄も、たびたび体調を崩し、次のステージに進む必要がありました。その時期ならではの、皆にとっての色んな転機がそこにありました。

中野のアパートで無断で登記をした次のオフィスは、阿佐ヶ谷の一戸建ての物件になりました。

つづく

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