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音楽制作業 OFFICE HIGUCHI 10周年までの道のり#36 〜番外篇 音楽の小さな種火から〜

お世話になっております。代表の樋口太陽です。

投稿の時系列からは外れてしまいますが、番外篇として、僕たちにとっての音楽の小さな種火が、どうやって炎へと育っていったかを幼少時代まで遡って書きます。こうやって振り返ると子育てや人生は、なかなか思った通りにはならないんだなということを痛感します。

(兄弟共通)
福岡県、田川の出身です。かつては炭鉱で栄え、荒くれ者が集まったその名残りでヤンキー文化が有名です。そんな町に似つかわしくなく、兄と僕は幼稚園の頃からピアノを習っていました。
 
かといって、何か特別な英才教育のようなものではなく、誰もが通るバイエルのような練習曲を弾きました。特別うまいわけでもなく、作曲や音楽理論を習うわけでもありません。指が動かせて練習曲が弾けるようになることを目指す、全国のこどもたちが経験する、ごくふつうのピアノレッスンです。音楽一家というわけでもないので、なぜ習わさせられていたのかも、よくわからず、特に目的はありませんでした。

(弟)
当時、僕がどう感じていたかというと・・・そりゃ嫌でしたし、サボりたかったです。
 
男子がピアノを弾けたらカッコよい的な価値観があるかというとそうでもなく、やはりスポーツができた方がモテるので、目先のメリットは特にありません。

レッスンの予習はせず、いつも練習不足を叱られていました。ちょっとでも前向きに取り組めるよう、好きな曲でも弾こうということになり、近所の本屋で楽譜を買って練習したのは、こちらの二曲。

X JAPAN「CRUCIFY MY LOVE」と、坂本龍一「戦場のメリークリスマス」です。好きな曲だったので、なんとか弾けるようになりましたが、ピアノレッスンは中学校一年生で辞めてしまいました。しかし、このピアノの経験で音感など、基礎的な音楽能力が身につきました。これが音楽の小さな種火と言ってよいでしょう。

(兄)
一方、兄は世代的にドンズバではないのですが中学の時、BOØWYにハマりました。家には父が持っていたクラシックギターがありましたが、エレキギターが欲しいと、父に頼みます。しかし、その願いは叶いません。なぜか。

エレキは不良がやるものだ。

いまの時代を生きている方からすると、耳を疑うかもしれないですが、当時1990年代の田川では、そのような価値観が実在していました。兄は泣きながらクラシックギターにマイクを押し当て、弾きました。その姿を見かねた父は、そんなにもエレキギターが欲しいのなら、考えてやろう・・・という事で、近所のリサイクルショップに行き、安価な中古のエレキギターを買ってくれました。

兄は、水を得た魚のようにエレキギターを弾き、たくさんの曲を覚えました。しかしロックの道は、そうやすやすとはいきません。当時、兄がギターを覚えようと楽譜を手に入れたのが、こちら。

今も現役で活動している日本のロックシーンのレジェンド、BUCK-TICKのベストアルバム「殺シノ調ベ」です。

表紙のタイトルを見た父は、その名称だけで激怒しました。

殺シノ調ベ・・・なんかこれは!」

兄は

「違う、そんなんじゃない!」

と、抗いました。このアルバムは、今聴いてもほんとうに素晴らしい名盤なのですが・・・大人になって我が子を持った今では、当時の父のその気持ちもわかる気がします。

そんなこんなで、兄はエレキギター、そしてバンド活動という道を、切り開いてきました。最初は厳しく反対されつつ、徐々に緩和していった喜びもあるのか、ものすごい勢いでロックバンドの世界にのめりこみました。影響を受けたのは、BOØWY、BUCK-TICK、THE MAD CAPSULE MARKETS、X JAPAN、LUNA SEA、尾崎豊・・・それぞれ音楽的なジャンルは違えど、あふれんばかりの反骨心が育まれるようなエッセンスが、そこにありました。

こうして、ピアノレッスンによる音楽の素養という種火に、ジャパニーズロックの反骨心の火が僕たち兄弟にブレンドされていきました。その後の人生を変えていく要素として肝となるのは音楽の知識やテクニックなどではなく、この時にインストールされた反骨心こそが一生の宝だと、今では思います。

(兄弟共通)
本は大好きだったので、小学生の時に江戸川乱歩や星新一の文章をたくさん読みました。漫画は、ドラえもん、手塚治虫作品、ジョジョの奇妙な冒険、寄生獣、SLAM DUNKなど。テレビは、ごっつええ感じ、一人ごっつなど。そこまで変わったものはなく、日本人の誰もが触れたコンテンツだとは思いますが、どれも時代を超えるバイブルのようなものです。それぞれの世界に没頭しました。これでいわゆる「音楽好き」なだけに収まらない、立体的な世界観の火が加わりました。

(弟)
SNSもない時代。アーティストは雑誌やテレビの中だけの遠い存在です。彼らが田舎の僕たちに伝えたのは、それぞれ少しずつニュアンスが違うが、どれも極められている美学でした。僕は、ファッション雑誌や音楽雑誌などを見ては美学あるものを渇望しました。反動で「納豆、梅干し、ゴザ、漬物」などが、とても苦手になってきました(美意識あってつくられているものは除きます)。田舎育ちだからこその反動で、美学という火が加わりました。

母は、安価で製造されたロークオリティの品物を大量に買い込む癖がありました。これの反動で、ハイクオリティ至上主義という火が加わりました。

しだいにエレキやバンドが不良だからNGというムードは、時代的にも家の中でも薄れていきました。そのおかげで、中学になった僕がエレキギターに触れるころには、あまり障壁はありませんでした。誰にも教わることもなく、作曲をやるようになりました。そのころ僕は、THE YELLOW MONKEYに魅了され、楽譜を見ながら全てのパートを演奏しようと練習し、マルチ演奏能力の火が加わりました。

僕は中学三年生の時、バンドを組みました。LOW AGE KIDSというバンドです。僕はドラム。ベースは、小学校からの友達の青柳考哉くん。ギターは、オフィス樋口の元プロデューサーである木村亮一くんの弟であり、タグラインの英語の相談をした木村康治さんの息子でもある、木村貴輝くんです。

このころ、木村兄弟より、Hi-STANDARD、B-DASH、THUMB、SUPER STUPID、ヌンチャク、BRAHMAN、SHORT CIRCUIT・・・などの、メロコア、ハードコア文化。ストリートカルチャーの火が入ってきました。

高校時代は、バンド活動に明け暮れました。僕は授業をまったく聞くことのできない性質だったので、授業中にずっと膝を叩き、ドラムパターンの練習をしていました。

木村家の父、木村康治さんが所有していた高価な録音機材を使わせてもらったおかげで、高校生にして、自分たちの力で多重録音を行います。

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現代のテクノロジーとは比較にならないスペックのものではありますが、今までは不可能だった、田舎の地でも演奏が劣化なく残せるというデジタル機器によるテクノロジーの火が加わりました。この時の経験により、頭の中にあるアイデアを、具現化してアウトプットできるという基本的なスキルが身につきました。

ごく普通の作りの一軒家にも関わらず、近所迷惑も省みず、いつでも爆音でレコーディングするのを許してもらえた木村家の環境によって、バンドアレンジとレコーディングスキルの火が加わりました。

(兄弟共通)
また、意外にもとても重要だった因子が、体育祭の応援団です。こんなものです。ちなみに動画の左手側で太鼓を叩いている僕は副団長。青柳考哉くんが団長です。

学校によって応援団の立ち位置は違うかもしれないですが、僕らの田川高校においては、応援団の役割は「応援」だけでなく、「パフォーマー」でもありました。太鼓と掛け声と振り付けの掛け合わせで、オリジナルでつくる5分間の演舞に、赤白黄蒼の各団がクリエイティビティを競い合います。普通に取り組むならば、ただの学校行事ですが、当時の僕たちにとっては、その人生を燃やし尽くすほどの価値があるものでした。

限られた期間で皆のアイデアを振り絞り、毎日鍛錬を重ねました。これにより、チームでの総合的なクリエイティブという火が加わりました。

少しずつ、RED HOT CHILI PEPPERS、Björk、Radiohead、The Strokesという海の向こうからのカルチャーの火も加わってきました。とはいえ、誰もが一度は通るような、代表的なものばかりです。

(弟)
いちおう進学校である田川高校でしたが、同級生の皆が大学の受験勉強をする高校三年生の秋〜春、僕は受験をまったくせず、持てる力の全てを、ひとつのアルバム制作に注力しました。なぜこれが家庭内で許されたのか・・・今でも不思議です。それが2003年につくったこのアルバムです。※最近、配信でも聴けるように再ミックスしました。

ジャケットは、兄がCGで制作したジャケです。兄は当時、大学三年生です。音響設計学科なのでこういった授業は受けていなくて、あくまで趣味でCGを習得していました。もちろんプロではありません。田川の家で夜な夜な一緒にしゃべりながら、作業を進めておりました。よくこんなのできたなと思います。

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完全オリジナルキャラクターの「レコードくん」が、女性のお尻を追いかけたのち、ボッコボコにされて悲鳴のベルを上げているサウンドをマイクで拾って、それがケーブルを伝って、最終的にMTRで記録している、というストーリーです。

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これにより、音楽にとどまらないアートディレクションの方向にも手を伸ばした、アート面での火が加わりました。

(兄)
兄の反骨心は、ヤンキー文化の街、田川という地で、よい方向に作用しました。友達の多くが中学生の時からタバコを吸っていることの反動で、ひとりタバコを吸わず過ごし、友達の多くがちゃんと勉強をしないことの反動で、勉強がすごくできました。センター試験の結果、ものすごく成績がよかったそうで、「樋口、おい・・・これ東大を目指せるぞ・・・」という先生のコメントに対して、

「先生・・・おれ、偏差値なんかで大学選んでないんスよね・・・」

と、言い放ったそうです。自分が興味がある、音に関わる学科に行きたいということで、九州芸術工科大学(現・九州大学)の音響設計学科という、珍しい学部に行きました。マイナーな名前の大学とはいえ、全国からすごく優秀な人たちが集まる学部でした。高学歴という火が加わりました(兄の方だけですが)。

(弟)
一方僕はというと、反骨心がよくない方向に作用してしまい・・・

高校を卒業したら、フリーターに、おれはなる!

という夢を持ちました。受験せずとも叶えられるイージーな進路です。念願のフリーター。福岡市で一人暮らしをして、本屋にて時給650円で働きます。しかし、4〜5時間ほどでパワー切れしてしまいます。一日に稼ぐ金額は3000円前後という生活。思ったよりも楽しくない。

フリーター辛い・・・フリーターやめたい。

結局はフリーター生活が嫌になって、自力で図書館で勉強をして、福岡大学の夜間部に入学しました。

その体験の皮肉めいたものとして自分一人でのソロ活動 A FREETER という音楽活動をはじめました。

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ソロ活動なので、一人で全てドラムからベースからギターまで演奏して歌って録音します。田川の実家にこもって、粛々と音を重ねて制作しました。

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この和室で当時、レコーディングした音源は、こういうものです。


これにより、一人だけで完結する音楽のアウトプットが出来るようになっていきました。これらの経験により、自主的にプロジェクトを実行していく火が、加わりました。

(兄)
大学の仲間と、兄は「金的三番街」というロックバンドを組み、福岡市を中心にライブ活動をしておりました。

僕も、兄も、福岡市で地道に音楽活動をしながら、バンドとして、アーティストとして、プロになることを目指していました。特に具体的なプランはありませんが、がんばって続けていれば、いつかミュージックステーションに出れるだろうと思っていました。誰もが夢する道です。しかし、あまり普通だと通らない要素も、ブレンドされていきました。

(兄)
兄の大学の仲間たちによる、自主的な映画制作です。今でも仕事に関わりがある人たちが、何人も関わっています。

兄は、映像にオリジナルの音楽をつけることから、効果音の処理まで担当しました。映像×サウンドの火が加わりました。

(兄)
兄は福岡でバンド活動をしつつも、Web制作会社に入社しましたが、会社員としての生活は長くは続かず、鬱を発症して会社に行くことが出来なくなってしまいました。そんなある時、会社を辞めてバンドも解散して、上京して単身フリーランスとして、音楽制作の仕事をする、と言いました。


音楽制作の仕事・・・?


プロの音楽家といえば、ミュージックステーションに出るアーティストしかイメージできなかった当時の僕にとっては、具体的になにをするのかイメージできません。しかし九州芸術工科大学出身の、兄の同級生、先輩たちは、すでに東京に出てクリエイティブな業界の仕事をしている人がいました。その中で、どうもオリジナルで音楽をつくる需要がちょこちょこあるらしいのです。仲間との繋がりという火が、東京という地での、かすかな希望の灯火でした。

(弟)
僕は「なんかよくわからないけど、がんばってー」という気持ちで、兄を送りました。

その後、僕は福岡大学を卒業することになりますが、またもや反骨心がよくない方向に表れます。

就活・・・そういうんじゃねぇし。

就活せずに、地元の田川に帰ります。田川の本屋で、再び時給650円のバイトを始めるも、無遅刻無欠席なのに「あなたはうちの店の雰囲気に合わない」という理由でクビになります。固定バイトもなんか違うわな、と日雇いバイトを始め、たまに福岡市に出稼ぎにバイトをしに行きます。

いつか公務員にでもなるか〜ということで図書館に行って公務員試験の勉強をしようとしますが、なんのやる気もおきません。同じくモラトリアム期間を謳歌していた友人たちと、田川に出来たばかりのマクドナルドでコーヒーを飲み、ネットカフェで卓球とカラオケ。日雇いバイト。山登り。いよいよ職業訓練校にでも行くか・・・

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※2009年 英彦山にて


諦めという雨が、育った火を消しかけていました。


そして、#0に繋がります。

そこからは、兄がよしもとに入ったお笑いの火、僕が会社経営に興味を持ったビジネスの火、人との繋がりを加速させたパーティーピーポーの火、広告への興味を加速させたクリエイティブディレクションの火、などなど、今までのエピソードで書いてきた無数の思いもよらない火が加わり、今に至ります。いままで火を絶やさずにいれたのは、奇跡的なことでした。

僕が今、ありがたいことに音楽の仕事を継続的に続けれているのは、音楽以外の要素が複雑に絡み合った結果です。雰囲気だけでも伝われば幸いです。

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もうひとつの話です。

父は田川の建設会社、樋口建設を営んでいました。母は幼稚園の先生。ピアノを習わせてもらえるだけあって、幼いころは、わりと余裕のある家庭だったと思います。

しかし、父の建設業は、自分たちが学生の頃、ハウスメーカーの隆盛、不景気の煽りを受け、業績が傾きました。当時はよく事情を知らなかったのですが、社員はほとんどいなくなり、借金の返済など、とても苦しい状況になりました。「社長の息子」とはいえ、景気のよい家庭では、まったくありません。父は、そんな姿を僕たちに見せることはなく、気丈に毎日出勤していました。そのおかげで、僕たちは何も考えずにノンキに音楽活動に励むことができました。それが未来にどう繋がるのかも、よくわからないのに。

※そんな父が経営している樋口建設は、まだ現役です。田川や筑豊周辺で建築やリフォームを考えている方は、ぜひご要命よろしくお願いいたします。
 
父の建設会社、「樋口建設」は、どこにでもある田舎の零細企業。ブランディングも、クリエイティブも経験がなければ、Webサイトさえもありません。愚直によいものづくりを行なってきましたが、そのことを外に表現することはできず、時代の煽りを受けることになってしまいました。

今でこそ、僕は思います。もう少しはやく、僕が広告クリエイティブのことを学び、東京で繋がった素晴らしい仲間たちの協力が仰げたら、もっと父に貢献できたのではないか。そして、こういったことは父だけの話ではなく、全国の企業が直面しているのではないか。

当初は、音楽でメシを食うためだけに上京したはずなのに、そんなことを、考えるようにもなりました。

自分が長野に家を建てたこともあって、父と建築の話ができるようになりました。間取りや設備の相談をしたり、建材の話をしたりと、具体的なところまで突っ込んで同じ話題を話せるのは面白いものです。ある時、父と、話す中で、こういう話をしました。

「田川だと、建築のデザイン費とかは、どーなん?」

ふと、興味がわきました。一戸建ての注文住宅には、普通、モノを買うだけの値段ではなく、設計に関わるデザイン費用がかかります。

「こっちの田舎だと、そんなデザイン費とかは、お客さんに理解してもらえん。デザイン費はゼロ円。」

えっ、そんな・・・。僕はびっくりしました。建築でも、クリエイティブでも、もっとも大事なのは、設計部分。人が産み出すアイデアの部分だと今までのたくさんの経験の中で、僕は実感してきました。設計のアイデアがよくないと、つくるもの全てが半端なもの、無駄になる可能性だってあります。それは東京も地方も関係ないはず。それでよいのか・・・?

そういえば。もう一つ印象に残った話があります。とある広告代理店につとめる友人が話していたこと。

日本の企業は、製造業が基本にあって、形あるモノをつくって売ってきたという流れがあるから、形ないアイデアや企画にお金を払うというのが理解できないクライアントが非常に多い。

とのことです。建築のデザインも、音楽も、企画も、アイデアも、はっきりとした形はないが、とても大事なもの。なのに、それに対して理解がなく、価値を感じれず、お金を払うことができない人が多く存在している。

なんだ、このバカみたいな話は・・・。

日本の、そしてきっと世界中のどの業界にもあてはまる、大きな課題。幼い頃からノンキに音楽に没頭していた僕は、だんだんそれに、気づいていくことになりました。

音楽という種火からムクムクと育っていった炎が、まったく予想していなかったところにまで、飛び火していくことになりました。

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