イントロダクション:前書き - 後編

◇前編(前書き〜コンサート・パーティーまで)はこちら

●ハイライフ・ミュージック

ハイライフには、パームワイン、ブラスバンド、コンコマ、ギターバンド、ダンスバンドなど、コンサート・パーティーの伝統と相互作用するか、または吸収されたダンス・ミュージックの種類が多く参照されている。この人気のある文化的なガーナのダンス・ミュージックの起源は、ファンテ(アカン方言)を話す人々が住んでいる国の南西海岸にある。また、ここはポルトガル人が1482年にエルミナ城を建てたため、ガーナの中でもヨーロッパ人との接触の歴史が最も長い地域の一つでもある。

ヨーロッパの要塞周辺で育った港町で、外国の音楽の影響を特に受けやすかったのが、”アデンクム(=Adenkum)”や”オシビ(=Osibi)”のような地元のファンテ・レクリエーション用の音楽スタイルだった。

そのような影響の一つとしては、ヨーロッパ人と、ヨーロッパで訓練されたアフリカのミュージシャンで構成された連隊のフルートや、ブラスバンドによって演奏されていた、西洋のマーチング・ソングとポピュラー・ミュージックから来ていた。

別の外部からの影響としては、西インド諸島、アメリカ大陸、および近隣のアフリカ諸国からの黒人を含む船乗りからも大きかった。

それは、ギター、バンジョー、ハーモニカ、コンサルティーナ、アコーディオン、および船乗りに好まれる他のポータブルな楽器で演奏された音楽だった。リベリア沿岸のクル族は、船員としてもギタリストとしても特に有名であった。彼らは、当時の西アフリカ沿岸全域に”クルの街”と呼ばれる集落を持ち、18世紀後半からヨーロッパの商船の船員として雇われた。ガーナのジェイコブ・サムは、1928年に最初のハイライフ・レコーディング・アーティスト(Zonophoneの為のレコーディング)となり、クル人によってギターを教えられた。

ハイライフに対する3番目の外国の影響は、キリスト教の教育を受けた黒人エリートに人気のあるピアノ音楽と、宣教師と学校教師の賛美歌によるものだった。今から数年前(※1990年前後)、ガーナ大学の講師であるロバート・スプリッジは、最も初期のハイライフの歌の1つである”Yaa Amponsah”の音楽的分析を発表した。彼はこれを土着のリズム、西アフリカ独特のギターピッキング奏法である”ツー・フィンガー”テクニック、そして賛美歌のハーモニー進行の途中、3分の1までの産物であると考えた。

世紀の変わり目までに、これらのさまざまな外国の要素が、ガーナ固有の沿岸伝統のレクリエーション・ダンスやドラム・ミュージックに影響を与え始め、その結果、地元のパーカッションや西洋の要素を取り入れた、多くの新しい音楽スタイルが出現した。いくつかの例としては、ファンテの”オシビサアバ(=Osibisaaba)”、”アダハ(=Adaha)”、”アンカダンム(=Annkadanmu)”、およびガ族の”ティモ(=Timo)”。

そしてこのるつぼに、西アフリカの各地からの材料がやってきた。シエラレオネとラゴスの”アシコ(=Asiko。またはAshiko)”、リベリアのクル族のギター・ソング”ダゴンバ(=Dagomba)”、シエラレオネはフリータウンの”マリンガ(=Maringa)”と”ゴメ(=Gome。またはグンベイ=Goombay)。後者は最終的に解放されたジャマイカの奴隷、または19世紀初頭にそこに定住した”マルーン”がもたらした。これらの新しく文化的な音楽スタイルは、1920年代に”ハイライフ”として一般的に知られるようになり、ハイクラスのガーナのダンス・オーケストラのレパートリーに取り入れられるようになった(詳細は後述)。

1920年代までに、”ハイライフ”はガーナ南部全体に広がり、主に3種類のアンサンブルで演奏されていた。

それは、

・ブラスバンド

・ダンス・オーケストラ

・パームワイン・ギターバンド

の3つだった。

地元のブラスバンドは、19世紀後半に海岸に駐留していた西インドの兵士の連隊バンドに触発された。マーチングと西洋音楽に加えて、彼らは”アダハ”として知られるハイライフのスタイルを演奏した。

1920年代までに、地方の管楽器と鼓笛で構成されたバンドが多くの地方の町に設立された。彼らは先住民族であるアカンの祝祭的音楽にも影響を及ぼし、1930年代に登場した”コンコマ”・マーチング・グループとして知られ、”貧しい人々”によるブラス・バンドの雛形となった。 コンコマ・ハイライフはナイジェリアにまで広まるほどに人気を博した。

ハイライフにおけるアンサンブルの2番目のタイプはダンス・オーケストラだった。ガーナで最初のアンサンブルは、1914年にガ族のミュージシャン・グループによって形成されたエクセルシオール・オーケストラ(=Excelsior Orchestra)だった。

それから、ボールルーム・ミュージック、ラグタイム、そしてハイライフを演奏したもう1つの初期のガ族のグループが、アクラとセコンディの映画館やダンスホールで、トップハットとイヴニングドレスでキメた上流階級のガーナ人に向けて演奏していたジャズ・キングス(=Jazz Kings)であった。

夜のエンターテインメントは、サイレント映画で始まり、コンサート・パーティーの章で述べたタイプのヴォードヴィルのアクトが続き、ダンス・セッションで終わった。 この文脈で”ハイライフ”という言葉が生み出されたのである。

1930年代までに、ほぼ交響曲を演奏する楽団の構成に類似した多数のオーケストラが存在したが、彼らは皆、ポピュラーなダンスチューンを演奏していた。

ウィネバ・オーケストラ(=The Winneba Orchestra)、セコンディ・ナンシャマン(=The Sekondi Nanshamang)、ケープコースト・シュガーベイビーズ(=The Cape Coast Sugar Babies)、ドクター・グレイヴズ・オーケストラ(=Dr.Grave's Orchestra)、アシャンティ・エンクラモ・バンド(=The Ashanti Nkramo Band)、コフォリドゥア・カジノ・オーケストラ(=The Koforidua Casino Orchestra)、ティーチャー・ランプティズ・アクラ・オーケストラ、そしてアクラ・リズミック・オーケストラ。

ハイライフにおけるアンサンブルの3番目のタイプは、名前が示すように、地元のバーでロウ・クラス向けに演奏していたパームワイン・グループだった。

彼らは、船員の楽器、特にギターを、ドラム、クラーヴェ、アプレンプレンセマと呼ばれる、巨大なアカン族のハンド・ピアノなどの地元の楽器とともに使用した。1930年代および40年代の、ハイライフと”オドンソ(=Odonso)”またの名を”アシャンティ・ブルーズ(=Ashanti Blues)”として知られる、より固有で、かつ異形な楽曲を演奏したギターバンドが現れたのは、パームワイン・グループの外からだった。

この時代の初期のギターバンド・ハイライフの有名人は、クウェシ・ペプラ(=Kwesi Pepra)、クワミン(=Kwamin)、アピアニン(=Appianing)、ピサ(=Pisah)、ミレク(=Mireku)、クウェシ・メヌ(=Kwesi Menu)、カンカン(=Kamkan)、オセイ・ボンス(=Osei Bonsu)、アッピア・アジェクム(=Appiah Adjekum)、そしてもちろんヤコブ・サムだった。戦後の革新的なギターバンド・ミュージシャンである、E.K.ニアメ(=E.K.Nyame)は、アッピア・アジェクムのグループで、キャリアをスタートさせた。

すでに述べたように、E.K.ニアメは地元のダンスバンド・スタイルのハイライフからアイデアの一部を獲得した。

モダンなダンスバンド・ハイライフは、ダンス・オーケストラから発展し、主にイギリスとアメリカの同盟軍がガーナにスウィング・ミュージックを導入したためで、言わば戦争の産物だった。サージェント・レオパルドのブラック・アンド・ホワイト・スポッツや、テンポス(=The Tempos)のような小さなスウィング・バンドは、外国の軍人に対応するために設立された。彼らは白人のミュージシャンと地元のダンス・オーケストラから募集したガーナのミュージシャンで構成されていた。E.T.メンサーは、外国人兵士が動員解除されて帰国した後、完全にアフリカ人だけとなったテンポス・バンドに属していた。 E.T.メンサーはその後リーダーとなり、このトランペッターによるスウィング、カリプソ、アフロ・キューバンの音楽と、ハイライフとの融合は大成功し、テンポスは多くの西アフリカのダンスバンド・ハイライフの雛形となった。

テンポスに影響を受けたのは、ガーナのレッド・スポッツ(=The Red Spots)、リズム・エース(=Rhythm Aces)、ブラック・ビーツ(=Black Beats)、レイカーズ(=Rakers)、ランブラーズ(=Ramblers)、スターゲイザーズ(=Stargazers)、ブロードウェイ(=Broadway)、およびその後継バンドであるウフールズ(=Uhuru)。シエラレオネのティックラーズ(=The Ticklers)、ナイジェリアのボビー・ベンソン・バンド(=Bobby Benson)、サミー・アクパボット(=Sammy Akpabot)、E.C.アリンゼ(=E.C.Arinze)、ヴィクター・オライヤ(=Victor Olaiya)、エディ・オクンタ(=Eddie Okunta)、レックス・ローソン(=Rex Lawson)などのバンドが含まれる。

ナイジェリア自体では、ダンスバンド・ハイライフが、ヨルバのコラ・オグンモラ(=Kola Ogunmola)、デュロ・ラピドー(=Duro Lapido)、オイン・アデジョビ(=Oyin Adejobi)などの旅行劇団に影響を与え、ハイライフと”ジュジュ”・ミュージックを演奏するバンドを倍増させた。

後者はハイライフに相当するヨルバ語であり、1930年代にナイジェリア西部で地元のネイティヴ・ブルース、パームワイン・ギター・ミュージックから生まれ、コンコマの影響も吸収されていた。

ダンスバンド・ハイライフがガーナ(およびナイジェリア)の人気の高い劇場に与えた、初期の戦後の影響に加えて、他のダンス・ミュージック・スタイルは、後にコンサート・パーティーとそこで活動していたギターバンドの軌道にしっかりとフィットした。

1960年代初頭から、ロックンロールとツイストに始まり、のちにソウル、レゲエ、ホット・ゴスペル、ディスコ、ラップ、ハウス・ミュージック、ラガが続くこととなる、西洋の”ポップ”・ミュージックが流入した。

たとえば、1970年代初頭のアフリカン・ブラザーズ・バンドのコンサート・パーティーでは、輸入されたソウル、ファンクをローカルの音楽と融合させて、”ロコモーティヴ・ビート”を作り上げた。その少し後では、シティ・ボーイズ・バンドがチュイ(=Twi)・レゲエ・ハイライフで有名になった。そして今日では、多くのギターバンドがゴスペル・ハイライフを演奏している。

さらには、アフリカの他の地域のポピュラーなダンス・ミュージック・スタイルも、過去20年にわたってギターバンドのレパートリーに取り入れられている。

南アフリカのミリアム・マケバ(=Miriam Makeba)、ナイジェリアの”アフロビート・キング”であるフェラ・アニクラポ・クティ(=Fela Anikurapo Kuti)、カメルーンの”ソウル・マコッサ”で有名なマヌ・ディバンゴ(=Manu Dibango)、そして、ナイジェリア東部の要素をブレンドしたハイライフが人気のプリンス・ニコ・ムバルガと彼のロカフィル・ジャズ(=Prince Nico Mbarga & His Rockafill Jazz)。

確かにハイライフはナイジェリア東部で非常に人気があり、コナドス(=Conadoes)、ザ・スーパー・セブン(=The Super Seven)、そしてエディ・マックスウェルのオドエウウ・インターナショナル(=Eddy Maxwell's Odoyewu Internationals)などと言ったガーナのコンサート・バンドがそこに定住していた。

他にも、オパンブオ(=Opambuo)やオククセク(=Okukuseku)などはガーナとナイジェリアを行ったり来たりして、彼らの音楽にセレスティン・ウクウ(=Celestine Ukwu)、スティーブン・オシタ・オサデベ(=Stephen Osita Osadebe)、オリバー・ドゥ・コーク(=Oliver de Coque)、ピーコックス(=The Peacoclks)、シーガルズ(The Seagulls)、イケンガス(=Ikengas)、そしてオリエンタル・ブラザーズ・バンド(Oriental Brothers Band)らのイボ・ハイライフ・スタイルを導入し、ガーナに紹介している。

しかし、ガーナのハイライフ・バンドに与えられた最も強烈なインパクトは、間違いなく60年代以来、アフリカ大陸全体を席巻してきた中央アフリカのコンゴ・ジャズ(今日ではスークースと呼ばれることが多い)だ。

ガーナでは、このスタイルに特化した多くのコンサート・バンドが生まれた。 最も著名なのは、F.ケニアのリッチズ・ビッグ・サウンド(=F.Kenya's Riches Big Sounds)とサフォヘネ・ジェニのアポロス(=Safohene Djeni's Appollos.)である。

コンサート・グループの影響を受けている、または実際にコンサート・グループを運営している、現在のトップ・アーティストとレコーディングスターは、この国に膨大な数ほどいるが、それはコンサート・パーティー-兼ギターバンドがガーナに与えている継続的な影響力の重要性を強調している。

“バック・トゥ・ルーツ”のハイライフ・ギタリスト、コー・ニモ(=Koo Nimo)は、かつてI.E.メイソン(=I.E.Mason)のコンサート・パーティーに参加していて、”ガーナのゴールデン・ヴォイス”であるパット・トーマス(=Pat Thomas)は、叔父にあたるクワベナ・”キング”・オニイナ(=Kwabena “King” Onyina)のグループに影響を受けた。ギタリストのエリック・アーギェマン(=Eric Agyeman)、ドラマーのトーマス・フレンポン(=Thomas Frempong)、トランペット奏者のトミー・キング(=Tommy King)、キーボード奏者のアーネスト・ハニー(=Ernest Honey)はすべて、ホーンとキーボードを使用した最初のコンサート・バンド、ドクター・K.ギャシのノーブル・キングスと活動していた。

70年代にルーツのある “オソデ”・ハイライフ・・ビートを生み出したギタリスト、C.K.マン(=C.K. Mann。彼のシンガーはパパ・コフィ・ヤンソン=Papa Kofi Yankson)は、ギタリスト、およびシンガーでもあるシニア・エディー・ドンコル(=Eddie Donkor)と同様に、後期のカカイク(=Kakaiku)のコンサートのメンバーだった。

さらに、ガーナで最も有名なミュージシャン、俳優、作曲家の多くは、かなり最近まで、または最近まで、

コンサート・パーティー、またはギターバンド・ハイライフのリーダーだった。

いくつか例を挙げると、ナナ・アンパドゥ(アフリカン・ブラザーズ)、Y.B.バンポー(=Y.B.Bampoe)またの名を “オピア(=Opia)”(ジャガー・ジョーカーズ)、コフィ・サミー(=Kofi Sammy。オククセク)、ジャクソン・アドフォ・ザ・ “ブラック・チャイニーズ”(=Jacson Adofo。シティ・ボーイズ)、アレックス・コナドゥ、またの名を “ワン・マン・サウザンド”(=Alex Konadu。自身のコンサート・パーティー)、F.ケニア(リッチーズ・ビッグ・サウンド)、Mr. A.A.A(クマピム・ロイヤルズ)、アマカイ・デデ(=Amakye Dede。アポロ・ハイライフ・キングス=Apollo Highlife Kings)、故”セニョール”エディ・ドンコール(コンサート・パーティー)、故・ボブ・コール(コンサート・パーティー )、オセイ・コフィ(=Osei Kofi。ヒーローズ=Heroes)、エリック・アーギェマン(コクロコ=Kokroko)、A.K.イエボア(=A.K.Yeboah。カカイクズ・ナンバー・ツー=K.K’s Number Two)、F.ミカ(=F.Micah。コンサート・パーティー)、アルハジ・フリンポン(=Alhaji Frempong。フィエスタス・クバーノス。またの名をヴィザヴィ。=Fiesta Cubanos as Vis-A-Vis)、パア・ボボ(=Paa Bobo。スリー・アクセス=Three Axes)。

A.B.クレンツィル(=A.B. Crentsil。アヘンフォ=Ahenfo)とジュエル・アッカー(=Jewel Ackah。バタフライ・シックス=Butterfly Six)はダンスバンドを運営していたが、ガーナ、とりわけ農村部をツアーするときは、コンサート・パーティーで活動していた。

最後に、海外でハイライフを演奏している、または他のスタイルと融合しているガーナの膨大な数のミュージシャンについても言及しなければならないだろう。

特に、1983年にドイツのジョージ・ダーコ(=George Darko)のバストップ・バンドが、”Akoo Te Brofo”(Parrot Speaks English)をリリースして以来、地元のガーナのハイライフに大きな影響を与えているので、彼らはとりわけ重要である。このナンバーは、ホームでのバーガー・ハイライフ(=Burgher-Highlife)、つまりハンブルクでまとめられたハイライフのディスコ・バージョンの熱狂を引き起こした。

海外のガーナのポップスやハイライフを演奏しているミュージシャンのすべてに言及することは不可能であるため、全てを記載することはできないが、以下はその一部のリストである。(※1990年前後)

北米

パット・トーマス、アルフレッド・シャル(=Alfred Schall。Wanna Wazuri Band=ワナ・ワズリ・バンド)、ナナ・ヨー・ボアカイ(=Nana Yaw Boakye。Nakupenda=ナクペンダ)、ビショップ・オケレ(=Bishop Okele。オフィシャルズ=Officials)、ジェリー・ハンセン(=Jerry Hansen。ランブラーズ=Ramblers)、オーボ・テッテ・アディ(=Obo Tetteh Addy。Kukrudu=ククルドゥ)、ヤクブ・テッテ・アディ(=Yacub Tetteh Addy。Odadaa=オダダー)

イギリス

ヘルマン・アサフォ・アドジェイ(=Herman Asafo-Adjei。Native Spirit=ネイティブスピリット)、アルフレッド・バナーマン(=Alfred Bannerman)、コフィ・アドゥ(=Kofi Adu)、クワベナ・オドゥロ(=Kwabena Oduro)、クワルテン(=Kwarteng。ハイライフ・インターナショナル=Highlife International)、レイ・アレン(=Ray Allen)、ジョージ・リー(=George Lee。メッセンジャーズ=Messengers)、マイク・オサパニン(=Mike Osapanyin。カバカ=Kabaka)、ジョン・ケー(=John K.)、ベン・ブラコ(=Ben Brako)、ナナ・ツシボ(=Nana Tsibo)、フランク・バフィ(=Frank Bafy)、ホジョ・アクアイ(=Khodjo Aquai) 、ナナ・バッゼイ(=Nana Budgei),、トニー・メンサー(=Tony Mensah)、ソル・アマルフィオ(=Sol Amarfio)、テディ・オセイ(=Teddy Osei。共にオシビサ=Osibisa)。

ドイツ

ジョージ・ダーコ、リー・デュオドゥ(=Lee Duodu。カンタタ=Kantata), レックス・ギャムフィ(=Rex Gyamfi)、ボブ・フィシオン(=Bob Fiscion)、アラン・コスモス・アドゥ(=Allan Cosmos Adu)、 チャールズ・アモア(=Charles Amoah)、マクゴッド(=McGod)、ザ・ルムバ・ブラザーズ(=the Lumba Brothers。ラップに影響を与えている)。

デンマーク

ヘンリー・ジー・ソロモンまたの名を”ソロ”(=Henry Zyi Solomon or “Solo”)、アフロ・モーゼス(=Afro Moses。元サード・アイ・オブ・ガーナ=ex Third Eye of Ghana)。

オランダ

コフィ・アイヴァー(=Kofi Ayivor)、スルーピー・マイク・ギャムフィ(=Sloopy Mike Gyamfi。サンカファ=Sankofa)、チャールズ・テッテ(=Charles Tetteh。クンベー・サレー=Kumbeh Saleh)、キャプテン・モロ(=Captain Moro)。

オーストラリア

エディ・クアンサー”ザ・ブラック・トランペット”(=Eddie Quansah「The Black Trumpet」)、アウェケ・グリミン(=Aweke Glymin)、リトル・ノア(=Little Noah。元コー・ニモ=ex-Koo Nimo)。

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